Heavy Duty

一緒に考えましょう。

のるかそるか

国会議員ってなにを考えているんでしょうか。

 

政治と金

国会議員というのは、その立場上、有権者から支持を得なければならない。というよりも、有権者から支持を得られるからこそ国会議員なのである。

この国会議員であるが、なぜか知らないが不祥事が後を絶たない。それも賄賂が多い。多すぎる。

この賄賂、比較的発展途上で民度の低い国家で横行しているのならわかる。しかし日本は衰えつつあるとはいえ、先進国の末席に名を連ねている。

それでもなお、この政治の世界が金というキーワードから離れられないのはなぜなのだろう、と純粋に思う。

ビジネスならば、A社と組むためにB社に工作してもらい、その報酬を支払うような場面はいくらでもある。これは業務委託料や紹介料などとしてまっとうな経費であり、損金である。

しかし、これが政治の世界になっただけでおかしくなる。A氏の支持を集めるため、B氏に工作してもらい、その報酬を支払うような行為はNGとされる。これはなぜなのだろうか。

正当な対価を支払い、真っ当な手続きを経て行われるものであれば、不当行為には該当しないように思われる。

しかし、有権者から政治家への寄附、政治家から有権者への寄附は基本的に禁止されている。いわく、きれいでクリーンな政治を行うためだそうだ。

これは……これほどまでに中身のない言葉があるだろうか。

きれい?

クリーン?

なんと定性的な言葉か。

 

民主主義の建前

我々国民は、成人すれば選挙権を与えられる。これは有権者の代弁者たる議員を選ぶことで間接的に政治に参加し、我々の権利を守ることの約束であるとされる。

民主主義とは当事者の合議による決定により、様々なことを決定していく手法のことであるが、当然ながらひとりひとりの意見をきいていたのではきりがない。そこで、これら民衆の意見の代弁者たる議員(=民衆の代表)を少数選び、それら議員による合議を民衆の合議であるとみなして、意思決定を行っていく。

この仕組みには国民であれば誰でも政治に参加してよい、あるいはみんなで決めたことは正しいという明らかな誤りがある。ただ、この仕組みにはメリットもあり、国民から不満が出にくいということである。

そうして出来上がる民主主義の仕組みは、当然ながら有権者ひとりひとりは平等であるので、有権者ひとりあたりの政治に対する影響力を均質化しなければならない。田舎のおばあちゃんが言う言葉も、お国を背負う大企業の社長が言う言葉も、等しくなければならないのだ。これが民主主義の建前である。

このような建前があるからこそ、影響力を金で買える人物がそうすることを禁止し、影響力で金を儲けられる人物がそうすることを禁止しているのである。

しかし、この、田舎のおばあちゃんと大企業の社長の言葉について、あなたは平等だと思うだろうか。私はそうは思わない。

もしかすると、大企業の社長なら自分の企業だけが有利になるような政策を求めるはずだという意見もあるかもしれない。しかし、本当にそうだろうか?

この、どんな情報でも大衆の目にさらされる社会において、自社の利益だけを求めるような行動をした場合、どうなるのかは火を見るより明らかではないだろうか。そのような行動をしたら最後、SNSで徹底的に攻撃され、それは社会の大きなうねりとなり、そしてその会社を滅ぼすだろう。

大企業の社長が、そのようなことをわからないはずがない。そうであるならば、その経験と知識を活かした提案なり政策なりを求め、あるいは立案して、田舎のおばあちゃんを含めたより大きな単位を幸せにできる方向性に進むのではないだろうか。

チェック機能がなかった昔ならいざ知らず、今はそのような時代ではない。

というかそもそも、今の代理制の民主主義を直接制に変えることも技術的には可能だろう。

 

民主主義のゆくえ、国家のゆくえ、社会のゆくえ

そろそろ民主主義の限界に気がついてもいいのではないだろうか。

今のような単一の社会では、ひとつでも誤った大きなうねり(給付金出せだの生活保護の扶養照会なくせだの的外れ甚だしい無知な意見によるうねり。このような無知な意見というのは無知な人間、つまり論理を持たず感情で判断する人間に刺さりやすく、またこのような無知な人間の方が絶対数が多くうねりを生み出しやすい)が生まれるとすぐにその方向に社会が動いてしまい、正しい論理こそが埋没してしまう。

いずれ民主主義は、今のような国家単位や社会単位ではなく、主義主張を同じくする者同士の集まりに変わっていくだろう。それは国境や民族の違いといった物理的な差異ではなく、思考の差異のみを基にしてあらゆるコミュニティが出来上がるだろう。

労働を是としないコミュニティ、男性を排斥するコミュニティ、日本文化を継承するコミュニティなどなど……それらコミュニティはそれぞれに社会や経済をもち、国家となるか国家と同等の地位を得ることになるだろう。

そしてそのコミュニティ自体も、前提に誤りがあれば自然に瓦解するであろうし、本当に価値があるのなら少しずつ規模を増大させていくだろう。

このように、今ある社会や国家の規定は国境や歴史が支配しているが、いずれ人間の思考が支配する世界に変わり、社会はひとつではなくなるのだろう。

私はそのような社会を望んでやまない。

生れ落ちたその瞬間、否応なくこの社会しか選べないような人生ではなく。

人の心を傷つけるものと、人の心を救うもの。

私たち人間は、誰ともかかわらずに生きていくことができません。必ず誰かと関わって生きていくことになります。

そのような社会の中ですれ違う多くの人々。その人々とのやり取りの中で私たちの心は消耗し、そして癒しを求めてさまようのです。

 

人の心を傷つけるもの

誰かに否定された、誰かに罵倒された、誰かに悪口を言われた、誰かに嫌われたなどなど。生きていると自分の心が傷つく出来事がいくらでも起こる。

そのようなことのひとつひとつを挙げればきりがないが、とにかく私たち人間が生きていくということは傷つくということと同義である。

では、人の心を傷つけるものとは、一体なんなのか。

悪意だろうか。

非寛容的な精神だろうか。

邪悪な思考だろうか。

これらはいずれも人の心を傷つける。信じがたいことだが他人の心を傷つけることを目的に行動する人間すらいる。

これら人の心を傷つけるのは、同じく人の心である。

同族や同じ存在というものは、基本的にはそれら個体が集まって群体としての生存本能を持つ。

草食動物が群れで行動するのは、群れという全体を維持するために個という一部分を切り捨てることもやむなし、という論理からである。そうすることによって全体を維持し、同族の群体としての存在を守る。

ただ、人間の場合はそうではない。

社会という群体を構成していて、表面上は皆で仲良くやろうという方向性が構築されているものの、その実個体単位では争いが尽きず、ある一定規模の個体の集まり(国家、宗教、人種など)単位でも争い続けている。

このように、人間だけはなぜか群れというものを維持しようとしない。それどころか、他者を否定し積極的に分断しようとする動きさえある。社会の中で生きることはすなわち攻撃されることであり、傷つけられることであり、消耗していくことなのである。

 

人の心を救うもの

傷ついた心について、私たちはどのように癒していけばいいのだろうか。

答えは自明である。

人の心を傷つけるのが人の心ならば、人の心を救うのもまた人の心なのである。

誰かに傷つけられたり、困って消耗しているような人を見かけると、私たち人間は本能的にかわいそうと思う。このかわいそうという感情は、傷ついた人に手を差し伸べ、消耗している人を助けるだけの原動力になる。

親から教えられたからだろうか、困っている人を見かけたら力になりなさい、と。そのように行動する人を見てきたからだろうか。それとも元々備わっている人間本来の機能なのだろうか。

どこからともなく現れるこの感情について、私は、本当はどこからくるのかを知りたい。その正体が何なのかを知りたい。

同じ人の心でも、変容すれば他者を傷つけ、あるいは他者を救うこともある。同じものであるはずなのに、全く逆の作用を持つ。

なぜこのようなことが起こるのか。なぜこのようなことが起こることができるのか。人の心の持つ能力や効果は計り知れない。

 

人間嫌いの構造

このように人の心は容易に変容してしまう。当人にとっては自然な作用でこのような形になったと思いがちであるが、それにはなんらかの原因なり理由があるはずである。

現代は個人主義が力を持ち、自分の好きなことをして生きていこう、自分が嫌いな人間と仲良くする必要はない、という風潮が主流である。

しかし、これら嫌われる側の人間の心理とはどういうものなのだろうか。自分の利になることのみを主張し、他者を否定し傷つけることも辞さない、その姿勢の奥底にある根本的な論理なり欲求とはなんなのだろうか。

それは思うに、人間という存在に対しての悪感情だと私は思う。いわゆる人間嫌いである。

では人間嫌いという性向はどのような要素によって組み立てられるのか。それは過去の体験であり、経験であり、記憶であると思う。

誰かに罵倒され傷つけられ、裏切られ否定され、自分の心をズタズタに切り刻まれたようなとき、その心はもう二度とこんな思いをしたくないと拒む。

拒絶は最強の動機である。もう関わりたくない、もうこんな思いをしたくない。自分の心を守るためなら、どんなものも拒絶する。そのためならどんな攻撃でもする。

そうしてできあがる強固な核は、人間の行動の原動力になり得る。

しかし、と私は思うのだ。しかしこれは、生きていると言えるのだろうかと。

生きることとは考えることである。現状について考え、あるべき姿について考え、その差分について考え、その差分を埋める方法やその具体的な実行計画について考え、そして実行した結果について考え、また差分を考える。こうして考え続けた先に自らを変革し続け、なりたい自分へ漸近していくことこそが生きることだと私は思う。

他者を拒絶するということは、すなわち他者とかかわることで起きる変化を否定するということである。私たち人間は社会で生きる以上、他者とかかわることを避けることができない。これは真義である。

そうであるならばやはり、他者とかかわることは受け入れざるを得ないし、人間嫌いなどと言ってすべての人間関係を完全に遮断することもできない。

ただ、人間が嫌いであるという性向自体は否定する必要はないし、自分というものの一部であるなら受け入れて良いと思う。

大切なのは自分を受け入れ自分と向き合い、それでも生きることを諦めず、なんとか社会と折り合いをつけていく姿勢をもつことだと思う。

その姿勢さえあれば、もしかすると人間嫌いも癒される日が来るかもしれない。と、私は人間嫌いである私自身の心を癒すべく、こうして語りかけているのである。

トイレ問題

私にとっては重大なことなのです。

誰かに聞いてもらいたい……。

 

職場のトイレについて

当たり前だが、職場とは仕事をする場である。とにかく仕事をするための場所であって、他のことをするために最適化されているわけではない。

ただ、会社員は職場で仕事だけをするわけではない。

同僚とお喋りをすることもあれば、一緒にお弁当を食べることもある。場合によっては着替えもするし、シャワーも浴びるだろう。

そしてひとつ大問題がある。トイレである。

人間とトイレは切っても切り離せない深い関係にある。1日のうちに1度もトイレを利用しないという人は稀であろう。

それくらい縁深いトイレは、例にもれず職場にもある。

公衆トイレのようなものもあれば、綺麗に整備された楽園のようなものもある。

ただ、多いのは自社がテナントビルに入っていて、トイレはそのビルに備え付けのものを使用するという場合ではないだろうか。

そのような場合は、ある意味気兼ねなく利用できる。席を立ってトイレへ向かったとしても、それがトイレのためであるとは限らないし、ばれにくい。何度行ってもよい。

あいつ1日に何回トイレ行くんだよ……と思われる心配もない。行き放題である。

ただ、今の私の職場は少し特殊である。

まずオフィスビルである。小さめの。ワンフロアにつき1テナントが入るような大きさである。

そしてトイレがテナントの中にある。

席を立ってトイレへ行くと、明らかにトイレへ行くとわかる。

トイレで物音を立てると、明らかに誰が音を立てたのかわかる。

これはつらい。

ブログを1か月毎日更新して変わったこと

ブログの毎日更新を始めて今日で1か月がたちました。

おかげ様でたくさんの方々に読んで頂いており、数多く反響もいただいております。

そんな私がブログを1か月続けてみてどうなったのかまとめてみます。

 

嬉しい

私はこれまで、特にこれといった「継続」に関する成功体験がなかった。

筋トレを始めても、読書を始めても、料理を始めてもなにひとつとして続かなかった。

そんな私でも、このブログの毎日更新なら1か月続けることができた。

これは、単純に嬉しいことである。やればできるじゃん。

続けることができた理由が何かといえば、それはやはり反響があることだろう。記事を書けば読んでくれる人がいるし、感想を届けてくれる人がいる。これは単純にまた書こうというモチベーションになるし、自分がやっていることにも少しの意味があるかもしれないという自信にもなる。

また、この継続に関する成功体験を得たいという目的は毎日更新をはじめた当初からの目的だったので、その達成の第一歩を踏むことができたことも嬉しい。

これからも、また1日ずつ毎日投稿の習慣を積み上げていこうと思う。

 

無駄に敏感になった

当たり前ではあるがブログを書くのには時間がかかる。すべて自分でやっているのだから当然である。

時には各内容を思いつけず途方に暮れることもあるし、途中まで書いてもどう着地させればいいかわからなくなることもある。

そのようにある程度時間がかかる作業であるため、1日の中にブログにあてることのできる時間がないか探すようになった。

作業や勉強の休憩時間には、ブログのネタや方向性を考えるようになったし、職場へ出勤する日の昼休みを記事を書く時間にあてるようになった。

こうしてみると1日の中に隙間時間や無駄な時間がいくつもあることがわかってきた。

意味もなくゴロゴロすることも減ったし、だらだらYouTubeを眺めることも減った。どうしても観たいYouTubeは極力家事などの作業中にながら聞きするようになった。

仕事に関しても、残業が増えれば増えるほど自分の時間が減ってしまう。このため無駄な作業や効率の悪い作業に対してイライラするようになり、マクロで自動化したり他人に任せたり、そもそもやめたりした。

 

その結果生まれた時間はブログや勉強に使うことになる。そして、何もしていない時間を過ごしていたり、明らかに無駄な時間の使い方をしているときに、居心地の悪さのようなものを感じるようになった。

これは良いのか悪いのかわからないが、とにかく私には変化が訪れている。変化を受け入れなければ過去の繰り返しであるだけなので、まずは変化に対して否定をせず受け入れていこうと思う。

 

時間で切り上げるようになった

私は完璧主義の傾向があり、仕事であればキリが悪いところで区切ることが苦手だったし、勉強であれば決めた量をこなさなければやめることができなかった。

ただ、このようなやり方をしていると時間がいくらあっても足りない。キリがいいところまで進めようとしたら、少なくともそこに至るまでの時間を費やしてしまうのだ。

そのように今までと同じ時間の使い方をしていたら、当然だがブログや勉強に使う時間がなくなってしまう。

意識的か無意識的か、それとも必然的にか、私は次第に「キリがいいところ」で次の時間の使い方に移るのではなく、「時間」で次に移るようになった。

定時になれば残業はせず職場から帰宅するようになった。

当然キリが悪いので机の上は散らかりっぱなしだが、別に誰かに迷惑をかけているわけでもない。

それに仕事というのはそもそも与えられた量をこなせば問題ないはずである。加えてこれはちょっと問題だが残業代が出ないという事情もある。

勉強に関しても、継続的に行うには日々の体調が万全でなければならない。

睡眠不足だと集中することができないし、仮眠をとるとそれだけでかなり時間を消費してしまう。

平日1日当たり4時間という目標を立ててはいるが、それはあくまで目標であり、睡眠時間を削って夜遅くまでやるようなことはしていない。

そうすることで次の日もいつも通り起床することができるし、いつもどおり勉強することができる。

確かに量的な目標を決めて達成していくことも大切ではあるが、それ以上に継続することが大切である。

私は実を取るようになった。

 

変わらないもの

一方で変わらないものもある。それは考えることの楽しさ、勉強することの楽しさである。

私は、人間にとって考えることは生きることと同義であると思っている。同じように、勉強することは考えることの一種であり、昨日とは少し違う自分になることができる。

こうして日々少しずつ積み重ねていけることが、今の私にとってはとても嬉しい。自分で自分のことを肯定できると思う。

このような自己肯定感を得ることができたのも、やはり継続することによる効果の一つだろう。

どうも自分に自信が持てないという方は、なんでもいいからなにかひとつのことを継続してみてはいかがだろうか。

続けることができているということは、それ自体が自分を勇気づけてくれる実績になる。

コロナ禍で現れる民度の低さ

不当な要求をしていないかどうか、自分の胸に手を当てて考えてみたいものです。

 

政府及び国会議員の仕事

国会議員の仕事のうち、最も重要なものは立法である。

今回のコロナ禍対応のため、国税関係の法律、雇用保険法関係の法律、そして定額給付金の差押え禁止(法律は個人の財産の差押えができるが、今回の定額給付金についてはその差押えの対象にならないようにするもの。固定資産税滞納してるような人が、10万円をそっくりそのまま差し押さえられたら困るでしょ?)の法律などが制定されている。

さらにこの法律の下に定められる政令や省令も含めると膨大な数になるだろう。

なにが言いたいのかというと、このように国会議員はきちんと仕事をしているし、まあ居眠りしているような場面を切り取って指摘されては反論の余地はないとは思うが、諸兄は就業時間中は1秒たりとも目前の仕事から離れて休憩することはないと言えるのだろうか? ということである。

他人に対して指摘をできる人間というのは、自分に対しても指摘できる人間でなければならない。自分に対して指摘できる人間というのは、自分の愚かさや至らなさを知っているので、そもそも他人に対して指摘をするような大それたことはとてもできないだろう。

なにを根拠に、仕事をしていないと言っているのだろうか?

なにを根拠に、給与額が不当であると言っているのだろうか?

なにを根拠に、今回の騒動が政府の責任であると言っているのだろうか?

私にはわからない。

自分の身を振り返りただただ力のなさを恥じ、政府や国会議員そして官公庁の関係者の方々のきっと寝る間を惜しんで対応しているであろう取り組みを想像することしかできない私は、とてもではないがそのような方々に罵声をあびせるようなことはできない。

きっとTwitterやニュースのコメント欄で政府批判をされている方というのは、余程高尚な人生を送り、多額の納税をし、慈善活動をしている方なのであろう。

頭が下がるばかりである。

 

本当に正しいこととはなにか

私たち人間は主観的な生き物である。そのため仕方がないことではあるが、主義主張はどうしても主観的なものになる。自分の目は自分についている。自分を見ることはできない。

自分の立場からみて、他人がどう見えるのか。これは相対的な評価であり、必ずしも真義に従ったものではない。

ときには主観と客観を使い分けて非常に鋭い洞察をする方もいるけれども、往々にしてそのような方というのは口を開くよりも閉じていたほうが得をするということを知っているので、そもそもあまり観測されない。沈黙は金である。

ただ、ほとんどの人はそうではない。自分は正しいことを言っているという主張も思い込みだし、あなたは間違っているという言葉は相対的なものである。

どうしてこれほどまでに、相対的な言葉ばかりが使われるのか。

それは、本当に正しいこと=真義にたどり着くことが非常に難しいことであるからだ。

人間としての正しい行い……つまりは挨拶をする、手伝ってもらったらお礼をする、迷惑をかけてしまったら謝るなどといったものは教育で伝えられるので、まあまあ身近な真義である。

ただ、全ての存在はただ存在しているだけである、権利には責任が伴う、思考こそが生きることであるといったことは、ただ日常を生きているだけではたどり着けない。

主観的な存在である私たちは、いつも自分の目で見たことを信じ、自分の耳で聴いたものを正解だと思い込む。ありとあらゆるインプットや事象を自分の有利なように解釈し、それが真実であると規定して疑わない。

そうであるならば、その思考や人間性は相対的なものにしかならない。自分の中に絶対的な正しさがないため、全てが相対的にならざるを得ないのである。

自分の中に正しさを抱くということは、かなり難しいことなのかもしれない。

けれども、それを諦めてしまってはもはや人間ではない。ただの葦となにがちがうのか、と私は問いたい。

 

他人のふり見て我が振りなおせ

これら不当な要求をする人たちが多い社会情勢を見て、無知である私たちにできることはなにか。

それは、これら「考える葦」でない「ただの葦」をみて、自分はどうであるか振り返ってみることである。

根拠のない前提に立脚した論理を使っていないか。

思い込みのみで事象を規定していないか。

国民の義務をきちんと果たしているか。

人間として正しい態度と行動を身に着けているか。

首相に殺されるだの、給付金よこせだの、国会議員は給与を0にしろだの、根拠の全くない不当極まりない主張を繰り返す暇があるのならば、まずは自分自身にできることをすればよい。

別に大それたことをしろと言っているのではない。

あなたがほんの少し家の前を掃除すれば、そこを通る人は掃除してくれた人を思うかもしれない。

あなたがほんの少し頑張って働いて納税すれば、そのお金はいつかどこかで凍えた人の手を温めるかもしれない。

私たちは社会に生きている。そして、社会に活かされていることを忘れてはならない。

良い話と悪い話が、ある。

良い話と悪い話がある。

良い話から聞きたい? それは「悪い話がない」だ。

 

この世の中のあらゆるものは相対的である。その最たる例が「良い悪い」の概念だ。

良いという考え方も、悪いという考え方も、必然的になにかと比べたときの状態を示すものである。

これは良い机だという言葉は、必然的に悪い机の存在を規定している。これは悪い本だという言葉は、良い本の存在を前提としている。

「良い机」そのものがあるわけでも、「悪い本」そのものがあるわけでもない。世の中に存在するのはあくまでも「机」であり「本」であり、それを五感で認識する私たち人間だ。

手で触れ、匂いをかいだその机は、あなたにとって良いものでも、他人にとっては悪いものであるかもしれない。耳で聴き、目で読んだその本は、あなたにとっては駄作でも、他人にとっては人生を変える本かもしれない。

このような「状態」なり「評価」といった要素は、どこまで行っても相対的なものであり、実体がない。雲をつかむような話という表現があるが、これらは雲どころか存在自体がない。

 

同じく実体のないもののひとつに感情がある。

私は、この感情というものが、いったい何なのかということがわからない。

なにしろ物心ついたころから慣れ親しんでいるものだし、私の行動原理のひとつでもあるし、そもそも私そのものであるともいえるからだ。

感情とは、なんなのか。

思うに、喜びや楽しみは、きっと身体にとって望ましい状況にあるときにあらわれるもので、怒りや悲しみは、きっと身体にとって望ましくない状況にあるときにあらわれるものなのではないだろうか。

無機物有機物限らず、世の中のありとあらゆる存在は、その中にそれぞれの「合理性」を宿していると思う。特に生命は、その内包する合理性が強固であればあるほど、その種を存続させる能力に長けていると思うのだ。

中でも人間は、これほど反映しているのだから霊長と言って差し支えないだろう。その人間の特徴としてあるのが、感情である。

人間がこれだけ反映している以上、そこに内包される「感情」という仕組みもきっとなんらかの「合理性」があるに違いない。

感情は理性と比較されがちであるが、理性はそもそも論理を基にするので、合理性に直結している。一方、感情は理性と対比されるだけあって合理性を持つという説明がしにくい。

感情の存在そのものについて合理性が説明しにくいのであるなら、その作用について考えてみてはどうだろう……という思考の先に行きつくのが、望ましい/望ましくない状況に対する反応であるという考え方なのである。

どなたか感情について論点整理してある本、あるいは深い洞察を学べるような本をご存じないだろうか。良ければご紹介いただきたいものである。

 

感情といえばFOMOという概念をご存じだろうか。単純な喜怒哀楽と比べると非常に複雑な概念である。

いわく、取り残される不安、というものである。

SNSによって遠くの他人は近くの他人になり、それぞれの生活をより近く感じられるようになった。フォローしている人の生活は投稿によって可視化され、YouTubePodcastなどによって配信もされ、会ったこともないのに友達であるかのような親近感を抱くことができるまでになった。

ただ、このSNSとは上手に距離を取らなければ、つまりあまりにも接近しすぎると、全ての人間が自分に関係のある人間であるかの如く錯覚してしまい、SNSそのものが自らのコミュニティと化してしまう。

そうなってしまうと遠い他者と近い他者との区別がつかなくなってしまい、本来は自分にとって遠い人間に対しても共有をしようとする方向性が生まれる。

あの人がこれをしていたから、私もやってみよう。あの人がこういうから、わたしもそうしよう。

このように他者に接近しすぎてしまうと、他者と五感を共有することが本人にとって大切なことになってしまい、それができなくなることに不安を感じるようになる。

具体的には、自分が知らない情報を目にしたり、盛り上がっているコミュニティに参加できなかったり。そのような場面で、自分だけが取り残されたかのような錯覚をする。これがFOMOである。

人間は社会的な生き物であるから、そもそもひとりの力だけで生き抜くことはできない。家族と支えあい、隣人と助け合って生きていくことで種を存続させてきた。

しかしこれが行き過ぎると、本来なら自分の人生に全く関係ない存在に対しても隣人だと錯覚してしまう。その方向性は非常に危険であり、行き過ぎると自分を見失ってしまいかねない。

ただ注意しなければならないのが、このSNS自体は善でも悪でもないということである。SNSは存在しているだけだ。物質の集合にすぎない。

これら物質をどのように活用し、自身の命に取り入れていくのかが生きることの醍醐味である。

そういえばこの醍醐味という言葉も、慣れ親しんでいるが実体がない。実体がないどころか、正体すらわからないのだから言葉というのは面白い。

日本人の識字率が低い、という話。

イケハヤさんがYouTubeでのコンテンツ提供について「識字率が低い」旨の発言をされていました。

非常に理性的で面白い視点だと思ったので、氏が意図したところが何かを考察してみます。

 

文字とはなにか

識字率が低いということは、文章を読むことができないということを意味していると思う。

では文章を読むことができないということは、どういうことなのか。

そのことについて考えるためには、まず文字とはなにかについて考えなければならないだろう。

文字とは、

 ①時間的に離れた相手でも

 ②空間的に離れた相手でも

 ③意図を伝えることのできる記号

である。

①時間的に離れているとはどういうことかというと、私が朝に送ったメールについて、相手が夜に確認するような場合、又は10年前の著書を今現在の私が読むような場合である。

つまり、同じ時間軸にいる必要がないということである。

②空間的に離れているとはどういうことかというと、日本にいる私がアメリカにいる友人に手紙を送るような場合、つまり同じ場所にいる必要がないということである。

③意図を伝えることのできる記号とはどういうことかというと、「嬉しい」という感情や「A=B」という論理や「CがDになった」という事象などについて、私と相手の中で共有するということである。

この、文字を使って組み立てられた一連のかたまりが文章である。

 

「文章の発音を再現できる=文章を読める」ではない

義務教育の場では、国語の教科書を音読するような場面があると思う。英語の教科書を音読するような場面もあるだろう。

これら音読というのは、単純に書いてある文字の発音を再現しているのみに過ぎない。

もしかするとそれ以上のことをやっている場合もあるかもしれないが、大抵のやらされている状況においては単に発音しているだけだろう。

この、発音を再現できるだけでは、文章を読めるということにはならない。

文章を読めるということは、そこに書いてある文字と文字の有機的な組み合わせを咀嚼し、自分の中にひとつの流れ(物語や論点や論理)を構築することをいう。

したがって、この「発音の再現≠読める」という論点をして、氏は「識字率が低い」と評したのではないだろうか。

つまり、いくらYouTubeでコンテンツ提供をしたとしても、提供者の意図する内容が伝わらない、論理が伝わらない。

そのことによって視聴者が異常な解釈をし、迷惑コメントなどの異常な行動を起こすような状況があったものと想像する。

YouTubeの視聴者は老若男女様々であり、むしろ単に視聴するだけの人間は恐らくリテラシーが低い。そのような総合的な状況を評した言葉だったのだと思う。

 

私たちは本当に文章を読んでいるのだろうか?

インターネット上には様々な情報があふれている。

それらは善意であれ悪意であれ、とにかく提供する側の人間が提供したいからこそ提供されている情報である。

提供者の仕事は、提供する時点までである。

それをどれだけわかりやすい形で、あるいは伝わりやすい形で提供するのかは本人の力量によるけれども、とにかく提供すること以上のことはできない。

そこから先は、私たち受け取る側の人間の仕事である。

提供された情報について、提供者の意図するところをきちんと整理できているかどうか。自分自身の誤った価値観や前提知識によって、それら情報の価値を歪めてしまっていないかどうか。

最も不幸なのは、自身の前提に縛られて自由な発想ができなくなってしまい、その発想と相容れない情報を目にした際、それが間違っていると思い込み攻撃するような場合である。

このようなことが起こると提供者は不快になるし、受信者の態度は悪いものになるしで良いことがない。

そういった不幸な事例が生じないようにするためにも、私たちは日々触れる情報について、文脈や前提など様々な要素を入念に考慮しつつ、自分のものとしていく必要があるだろう。

 

自分への戒め

ただ私は、情報を伝える側と受け取る側がいたとき、その情報が正しく伝わらない場合における責任については、基本的に伝える側にあると考えている。

受け取る側が真の意味で受け取ろうとしていない場合は論外だが、そうでない場合には伝える側の力量が試されるというわけである。

相手によって価値観の前提は違うだろうし、言葉のひとつひとつの受け取り方も違うかもしれない。場合によっては身振り手振りのボディーランゲージや、話し方の抑揚や表情・態度なども適切に組み合わせなければならない。

情報は情報でしかなく、それ以上でもそれ以外でもない。

大切なのはその情報をどう受け止め、どう利用するか。どう論理に組み込み、どう行動に落とし込んでいくかである。

普段顧客に対して情報を伝えることが多い職業であるため、私も自分の行動を振り返りつつこの記事を書いている。

ただ過去の失敗に凹みすぎてもいけない。その失敗を受け止め、次にどう活かすかを考えればよい。

それが大人の特権である。