コロナ禍で現れる民度の低さ
不当な要求をしていないかどうか、自分の胸に手を当てて考えてみたいものです。
政府及び国会議員の仕事
国会議員の仕事のうち、最も重要なものは立法である。
今回のコロナ禍対応のため、国税関係の法律、雇用保険法関係の法律、そして定額給付金の差押え禁止(法律は個人の財産の差押えができるが、今回の定額給付金についてはその差押えの対象にならないようにするもの。固定資産税滞納してるような人が、10万円をそっくりそのまま差し押さえられたら困るでしょ?)の法律などが制定されている。
さらにこの法律の下に定められる政令や省令も含めると膨大な数になるだろう。
なにが言いたいのかというと、このように国会議員はきちんと仕事をしているし、まあ居眠りしているような場面を切り取って指摘されては反論の余地はないとは思うが、諸兄は就業時間中は1秒たりとも目前の仕事から離れて休憩することはないと言えるのだろうか? ということである。
他人に対して指摘をできる人間というのは、自分に対しても指摘できる人間でなければならない。自分に対して指摘できる人間というのは、自分の愚かさや至らなさを知っているので、そもそも他人に対して指摘をするような大それたことはとてもできないだろう。
なにを根拠に、仕事をしていないと言っているのだろうか?
なにを根拠に、給与額が不当であると言っているのだろうか?
なにを根拠に、今回の騒動が政府の責任であると言っているのだろうか?
私にはわからない。
自分の身を振り返りただただ力のなさを恥じ、政府や国会議員そして官公庁の関係者の方々のきっと寝る間を惜しんで対応しているであろう取り組みを想像することしかできない私は、とてもではないがそのような方々に罵声をあびせるようなことはできない。
きっとTwitterやニュースのコメント欄で政府批判をされている方というのは、余程高尚な人生を送り、多額の納税をし、慈善活動をしている方なのであろう。
頭が下がるばかりである。
本当に正しいこととはなにか
私たち人間は主観的な生き物である。そのため仕方がないことではあるが、主義主張はどうしても主観的なものになる。自分の目は自分についている。自分を見ることはできない。
自分の立場からみて、他人がどう見えるのか。これは相対的な評価であり、必ずしも真義に従ったものではない。
ときには主観と客観を使い分けて非常に鋭い洞察をする方もいるけれども、往々にしてそのような方というのは口を開くよりも閉じていたほうが得をするということを知っているので、そもそもあまり観測されない。沈黙は金である。
ただ、ほとんどの人はそうではない。自分は正しいことを言っているという主張も思い込みだし、あなたは間違っているという言葉は相対的なものである。
どうしてこれほどまでに、相対的な言葉ばかりが使われるのか。
それは、本当に正しいこと=真義にたどり着くことが非常に難しいことであるからだ。
人間としての正しい行い……つまりは挨拶をする、手伝ってもらったらお礼をする、迷惑をかけてしまったら謝るなどといったものは教育で伝えられるので、まあまあ身近な真義である。
ただ、全ての存在はただ存在しているだけである、権利には責任が伴う、思考こそが生きることであるといったことは、ただ日常を生きているだけではたどり着けない。
主観的な存在である私たちは、いつも自分の目で見たことを信じ、自分の耳で聴いたものを正解だと思い込む。ありとあらゆるインプットや事象を自分の有利なように解釈し、それが真実であると規定して疑わない。
そうであるならば、その思考や人間性は相対的なものにしかならない。自分の中に絶対的な正しさがないため、全てが相対的にならざるを得ないのである。
自分の中に正しさを抱くということは、かなり難しいことなのかもしれない。
けれども、それを諦めてしまってはもはや人間ではない。ただの葦となにがちがうのか、と私は問いたい。
他人のふり見て我が振りなおせ
これら不当な要求をする人たちが多い社会情勢を見て、無知である私たちにできることはなにか。
それは、これら「考える葦」でない「ただの葦」をみて、自分はどうであるか振り返ってみることである。
根拠のない前提に立脚した論理を使っていないか。
思い込みのみで事象を規定していないか。
国民の義務をきちんと果たしているか。
人間として正しい態度と行動を身に着けているか。
首相に殺されるだの、給付金よこせだの、国会議員は給与を0にしろだの、根拠の全くない不当極まりない主張を繰り返す暇があるのならば、まずは自分自身にできることをすればよい。
別に大それたことをしろと言っているのではない。
あなたがほんの少し家の前を掃除すれば、そこを通る人は掃除してくれた人を思うかもしれない。
あなたがほんの少し頑張って働いて納税すれば、そのお金はいつかどこかで凍えた人の手を温めるかもしれない。
私たちは社会に生きている。そして、社会に活かされていることを忘れてはならない。