なんで自分の頭で考えないの?

ビジネス、お金、社会、経済などについて一緒に考えましょう。

現代人の移動の多さは異常

朝目が覚めてから夜ベッドに入るまで、私たちはいったいどれだけの時間を移動に費やしているのでしょうか。

 

移動時間を集計する試み

試しに自分自身の移動時間を計測してみる。今日1日の自分のスケジュールを追うことで、どの程度の時間を費やしているのかがわかるだろう。

まずは通勤である。これは自宅と職場が比較的近いため平均よりは短いだろう。往復60分というところだろうか。

そして今日は客先へ打合せのために移動した。こちらは片道50分、往復で100分にもなる。ちょっと頭が痛くなってきた。

これらを合計すると160分(!)になる。これが1か月20日出勤するとすると3,200分となり、年換算すると38,400分にもなる。分単位だとよくわからないので、時間に直すと640時間、日に直すと26日である。

これは……思った以上に時間を費やしている。あまりの多さに検算したが、間違っていない。え、本当に?

 

時間は命であるし、お金を積んでももう戻らない

今日の例は極端ではあるものの、通勤時間はほぼ毎日必ず発生しているため、少なくない時間を移動のために費やしていることになる。移動している間は、電車やバスであればなんとか他のことができるが、まあしかし、実際には電車の中で集中して勉強したりバスの中で本を読むのは至難の業である。

そうであるならば、このような移動時間はなるべく少ない方がよい。私は最近、昼休憩としてランチを食べに外出するのを極力控えるようにしている。イケハヤさんがラジオで繰り返し言っているのだが、彼はランチのために外出することを極力避けていたらしい。

それさえすれば彼のようになれるかといえば全く見当違いではあるが、しかしなにもしなければ1ミリも前進しないことも事実なので、まずはできるところから始めてみている。そうして空いた昼休みの時間は、ブログを書く時間にあてている。

これが意外とよい。職場という空間自体、もともと集中できるようになっている場所であるからか、昼休みの間でおおむね2,000字書くことができる。ちなみにだが、私はこのブログについて毎日更新かつ2,000字以上という制約を課している。

なぜ2,000字にしたのかといえば、私の好きな竜崎大輝さんのブログのうち、ある記事の文字数を数えると2,000字ない程度だったからである。これだけ素晴らしい文章を書く人がそれだけの文字数をアウトプットしているのだから、凡人である私は少なくともそれ以上書かなければ、という思考である。

話を戻すけれども、このように時間は有限であるし、少し気を抜くと無限に失われ続けるので、私たちはまず時間を取り戻す活動から始めなければならない。

 

離婚は悪なのか?

こうして竜崎大輝さんのブログを覗き、イケハヤさんのラジオを聴いている私だが、voicyには改めて確認すると数多くのコンテンツがある。イケハヤさんのように明らかに内容にコミットしているものもあれば、いわゆる垂れ流しのようなものもある。その中のひとつに、離婚は悪なのだろうかというコンテンツがあって聴いていた。

そのラジオのパーソナリティは離婚経験者なのだが、いわく、離婚して後悔しないでしょうか、というような相談が多く寄せられるため、自分自身の考えを話してみますという内容だった。

私にとって、この「後悔したくない」という感情の存在は謎めいている。人は様々な選択を重ね生きているが、その結果いかんによってはあの時こうしてよかったと肯定することもあるし、あの時ああしていればよかったと後悔することもあるという考え方である。

果たしてそうだろうか? 私はこの前提が間違っていると思っている。

結果というのは、必ずしもその選択だけがパラメータとして影響するわけではない。その他にも多くの要因によって影響を受けるし、場合によってはそこに天変地異が入り込んでくることもある。このような無数の影響要因を逐次予測し、完璧な結果を求めて、必然であるたったひとつの選択をする、というようなことができるだろうか? いや、できるはずがない。そうであるならば、結果というのは選択によって得られるものではなく、選択を含めた様々な要因が収束した到達点として得られるものであるはずだ。

過去の選択を後悔するということは、つまりは別の選択をすればよかった、私には別の選択をする能力があった、ベストの選択をするために未来を完璧に見通す神の力があったという奢りに過ぎない。

後悔なんてものは、ない。ただの哀愁だ。

私たちにできることは、結果を受け止め、その上で過去の選択を肯定することである。あるいは、過去の選択を肯定するために、よりよい選択を今行うことである。

過去の選択について評価するのは、今の自分だ。それはつまり、離婚した自分を肯定できるのは、今の自分しかいない。そして、離婚した自分を肯定するために、今の自分はどう幸せになるべきか考えなければならないのだ。

これが、私が後悔という概念を否定する理由である。そのような後ろ向きな概念は、人類にとって必要がない。

我々は既得権益をこわすためにどうすればいいのか

既得権益。どこかの誰かが持っている、その誰かの努力で掴んだものではない権利のことです。

それは先駆者の願い、つまりは後を継ぐ人が豊かであってほしいという希望の決勝ですが、現代に生きる私たちにとって、はっきり言って羨ましいしなくなってほしいもののひとつです。

 

既得権益とはなにか

1番わかりやすいのは、親の財産や社会的基盤を引き継ぐパターンである。財産というのは、なにもお金だけではない。不動産や株式など、持っているだけでお金を生んでくれるものも含まれている。不動産は賃貸収入を生み出してくれるし、株式は配当収入を生み出してくれる。また、社会的基盤というのは2代目社長がイメージしやすい。本人はなにも努力していない(と、外側からは観察される)人物が社長の子供であるという理由で会社の2代目社長になるような場合である。

これら親から引き継ぐというパターンは、一見して親ガチャの勝利者のように見えるし、本人はなにも努力していないのに利益を得ているように見える。しかし想像するに、これら2代目というのは生まれたときからそういう目で見られ続け、必然的に優秀でなければならないし、結果を出し続けなければならない。これはある意味、最初に生み出すという行為よりも難しいように思う。

社長の子供が2代目に、孫が3代目に就任した後、会社が倒産する例が多いのはこのためである。なにごとも始めるのが最も簡単であり、次に維持継続することが、最後にやめることが最も難しい。

他には業界団体が全体として利益を確保しているような場合がある。これはそれら業界全体としての努力の成果であるので、外側から文句をいう筋合いはないし、この利益を実質的に受け取る人というのも、その中でそれなりの努力をしているはずである。

こうして考えてみると、既得権益を得ている人というのは努力せずに利益を手にしているものと思いがちだが、実際にはそれぞれの努力や苦労の上で成り立っている。

しかしこの既得権益は、1度できあがるとかなり強固で、外側から崩すのが難しい。この点も外部からの揶揄や否定的意見のもととなっている。これら既得権益が存在することで、我々は利益を得ることができない、と。ただこの主張は間違っていて、レッドオーシャンを攻略しようとすることそのものが愚かであり、私たちは常にブルーオーシャンを探さなければならない。

 

変化はチャンス

時間の経過と共に、技術や社会は進歩していく。この流れの中で、ごく稀に既得権益の付近で小爆発が起こることがある。このような変化は、強力なはずの既得権益の外壁を少しだけ切り崩し、外側にいる人がその中に入り込む隙間を生み出すことがある。このようなことが起こると、今まで無関係だった人々にもチャンスが回ってくるようになり、新たな利益を生み出すことができる。

この小爆発は、テクノロジーが関与していることが多い。例えば不動産業界に仲介手数料というものがある。これは家を貸したいAさんと家を借りたいBさんがいるような場合に、不動産業者がこのマッチングを行い、AさんBさん両方からその手数料を受け取るというものだ。

この仲介手数料は、そもそも需要と供給のマッチングが個人でできなかったために発生していたものだ。ところがインターネットは個人と個人を容易に結び付け、マッチングにかかるコストをほぼゼロにしてしまった。この結果仲介手数料は取りづらくなり、ひとつの既得権益が消滅したといってもいいだろう。

このように、これまで非効率だった部分が別のテクノロジーによって効率化される、そのような場合に新たなブルーオーシャンを生み出すことができる。

 

 

あなたの周りの非効率はなんですか?

メルカリは個人間売買のマッチングを効率化した。ルンバは非効率だった手作業掃除を効率化した。Freeeなどのクラウド会計は入力作業を効率化した。YouTubeはユーザーが求めるコンテンツ提供を最適化した。

人々が面倒だと思っていること、時間がかかると思っていること、手間がかかると思っていることに、効率化の余地はある。これら非効率をどのように解決するかによって、新たなソリューションは価値を持つ。

この、非効率を効率化することに関しては、大切な能力が二つある。ひとつはアンテナを張って様々な情報を受け取る能力。もうひとつはそれらの情報を組み合わせて考える能力である。

現代では思考というものはほぼ出尽くしている。新たな発見はそうそう出てくるものではない。そのような中で、既存のものをどう組み合わせるか、どうデザインするかが、今後必要な能力の一つなのである。

眼鏡とテクノロジーを組み合わせることでなにができるだろうか。鉛筆とテクノロジーは? あるいは封筒とテクノロジーはどうだろうか?

このように情報を集めて組み合わせて問いを立て続け、いつでもどこでも「?」を持ち続けることが新たな価値を生み出すし、人間をまた一歩前進させるのえある。

自責と他責のバランスの悪さ

こんなとき、あなたはどこに原因があると思いますか?

仕事でミスをして、他者に影響を及ぼしてしまったとき。

自分で営業している定食屋が、コロナ給付金を受け取っていないのにもかかわらず、給付金でぼろ儲けしていると揶揄されたとき。

 

日本人の典型的な思考パターン

仕事でミスをして、誰かに影響が出たとき、多くの人は自分のせいだと考えるだろう。多少無理をしてでもフォローのために動き回り、眠れぬ夜を過ごし、影響を与えてしまった人に謝って回るだろう。

不当な揶揄を受けたとき、多くの人は社会のせいだと考えるだろう。正しい情報が正しく行きわたらず、誤った思い込みで不当な揶揄が出回っていると考え、これが本当のことだと訴えるだろう。

これらの思考パターンは、日本人の典型的なものだと言える。もはや文化的に築かれてきたといってもいい、それほどに根強くひとりひとりの思考に息づいている。ただ、これらの考え方が全てだと思い込んでいると、自分が辛い目に遭うか、あるいはきちんと課題解決できない。

例えば仕事でミスをした例。そもそも仕事というのはひとりではなくチームで進めるものであるし、一生懸命取り組んでいてミスをしてしまったのなら、それはもはや仕方がないことだろう。完璧な人間などいないのだし、それを補うためにチームで仕事をしているのだから。

もし自分自身に足りない部分があったとしたら、それはきちんと休んでいなかったことかもしれない。残業続きの日々に追われて、思うように睡眠時間や余暇の時間を確保できなかったのかもしれない。

しかし、そうだったとしても、その残業が発生するような状況というのも自分自身のせいではない。チームであるならばそんな状況が発生する前に手を打つべきだし、残業が発生するような進め方をしているならもはやチームとして機能していない。

こうして考えると、仕事でミスをしてしまったことは必ずしも属人的な問題だけで片付けられるものではないことがわかる。これはつまり、他責思考をしてしかるべきだということだ。

もうひとつの不当な揶揄の例。一部の心ない人間から誹謗中傷を受け、深く傷ついてしまったようなとき、社会や政治やメディアが悪いのだと考え、正しい情報を発信しようとつとめるかもしれない。けれども、本当にそうだろうか?

人間は均一な存在ではないから、必ず異常精神者が現れる。この異常精神者から攻撃を受けることは、社会で生きるならある程度は仕方がないことである。異常精神者を擁護するわけではないし排斥すべきだとも思うが、これらが一定数発生することは仕方がないのだから、そのようなことは織り込んで活動しなければならない。

自分の店を持つということは、このような不特定多数の人間の興味や攻撃にさらされるということだ。この、自分の店を持つという判断をした時点で、そのことに対するリスクは自分で背負うべきである。

そうであるならば、これら不当な揶揄を受けることは既に織り込み済みなのだから、ツイッターSNSで騒ぎ立てるようなことではない。苦情やクレームは日常茶飯事であるし、そのなかのひとつでしかなく、特別なことでもなんでもない。

こうして考えると、不当な揶揄を受けることは政府が正しい情報発信をしていないことが原因なのではなく、そもそも自分の店を持ったことが原因なのだから、ただ黙々と受け流せばいいだけなのである。

 

外部に原因があるときに内部に原因を求め、内部に原因があるときに外部に原因を求める

なぜこのようなちぐはぐな状況になってしまったのだろうか。これは日本人の典型的な思考パターンであるように観測されるため、もはや国内では普遍的なものになってしまっている。

ただ、このような思い込みを自ら外して、自分の頭で考え自分の足で立っている人もいる。人間なのだから画一的でないのは当たり前だ。

原因や結果なんてものは形のない相対的な存在なのだから、どう考えても正解でも間違いでもない。そうであるならば、自分にとって有利なように考えてもいいはずである。もちろん、社会の秩序を破壊しない程度に、である。

このバランスの悪さが、自殺者の多さや政治への関心のなさにつながっていると感じる。合理性よりも体面や感情を優先するというか、とにかく利がないように思える。

鼻マスクで利がない主義主張をした人も、きっと思考がちぐはぐになっていたのだろう。自分がこのような状況にいるのは自分のせいではない、社会のせいだ、とか。そのような思い込みは、時として人間を自己破壊的な方向性へ突き動かす。普通に考えて、指示されたらそれに従えばよいし、トイレに立てこもったとしてもなんの意味もない。ただこのように、単に社会を破壊してやろう、他者へ悪影響を与えてやろうという悪感情が誘発される場合があるということだ。

異常精神者や不当要求者は一定数必ず発生するので、仕方のないことではある。だからこそこのようなものは排除しなければならない。なぜならここは社会であり、社会不適合者に人権は認められないからだ。

異常な精神が異常な精神と呼ばれるのは、この社会の中にいるからであって、ある人の要求が不当なものであるとみなされるのも同じ理由である。この社会にとって異常であったり不当であるとみなされることが不服なら、どうぞそうではない社会を作って頂きたい。それができないのならば、大人なのだからきちんと社会に適合して頂きたいものだ。

はじまり、すすみ、そして。

生きているといつ何が起きるかわかりませんね。明日いきなり事故に遭うかもしれないし、昨日買った宝くじが当たっているかもしれない。

加えて人生は選択の連続で、他者からの外乱にさらされ続けます。私たちは、このような外乱からどのようにして身を守り、自分というものを確立していけばいいのでしょうか。

 

人生はメンタルブロックを植え付けられることから始まる

お金は貯金してもしもの時に備えなければならない、年上の人はどんなときも敬わなければならない、家族は大切にしなければならないなど、私たちは子供から成人年齢に達するまでに様々なインプットを施される。

しかし、そのほとんどは必要な前提条件がセットになっていない。もしもの時に備える方法は貯金するだけではないし、人間として尊重すべきでない年上の人はそもそも相手にする必要がないし、家族といえど他人なのだから、合う合わないがあって当然なのである。これら当たり前のことがすっぽり抜け落ちてしまっていて、ふと振り返った時に、そのことに気がつく。

私が今まで学んできたこと、常識だと思い込んで身に着けてきたことは、どれも本当に正しいものなのだろうか。突然足元が揺らぎ、積み上げてきたものが崩れ落ちていく感覚を味わう。そしてそのがれきを見つめ、途方に暮れるのである。

常識は思い込みであるし、普通なんて言葉は世の中を記号化しているに過ぎない。デカルトが言うように、思考する自分の存在のみが唯一絶対に揺るぎないものであるのだから、それ以外についてはひとつひとつ点検しながら積み上げていくしかない。

この、もともと植え付けられた常識というメンタルブロックにとらわれたままでは、なにも成し遂げることはできない。せいぜい平均化したいわゆる普通の人生を生き、そしてただ死ぬだけの時間の使い方にしかならない。

ではいかにしてそのようなメンタルブロックを外せばいいのか。答えは簡単で、単純に「なぜ」思考をすればよい。なぜ貯金することに価値があるのか、年上の人を敬う必要があるのはなぜなのか、家族を大切にすることが望ましい理由はなんなのか。

人間は思考する生き物である。思考できる能力さえあれば、この問いになんらかのかたちで答えることができるだろう。それが一般的な正解でなくても、他人にとって受け入れ難いものであっても関係ない。大切なのは自ら思考し、自ら答えを出すことである。

間違っていても全く問題ない。なぜなら、そのときはまた思考すればいいだけなのだから。

 

今あるもの

物理的に存在している物質や物体と、相対的に名付けられた概念とが、この社会には存在している(又は存在しているように観察される)。特に名称がついているものは取扱いがしやすく、思考の対象にすることが容易である。

「常識」について考えてみよう。常識とは一般的に妥当であると考えている物事の秩序、あるいは思考の方向性、結論の集合のことをいう。ただこの常識という言葉そのものに囚われてはいけない。この言葉を生み出したのは人間であり、定義したのも人間だ。人間が定義したということは、そこになにかの意思、あるいは思考が存在することになる。

常識という言葉を定義することにより、人間を常識で縛り、コントロールしようとする意志があったのかもしれない。あるいは、常識という言葉を認知させることによって、説明を省き記号化し、正しい思考を身に着けさせるプロセスよりも常識そのものが独り歩きするような場面を思考したのかもしれない。

言葉は、必ず意味を持ち、その意味は、私たちに必ず影響する。

言葉をつくり出すということは、すなわち思考をつくり出すということであり、活動、お金の流れ、ビジネス、市場すなわち潜在ニーズをつくり出すということである。

インフルエンサーという言葉は、昔はなかった。この言葉によって、インフルエンサーとしての立場を語る者が現れ、そこに集まる経済が、ビジネスが生まれ、お金の流れが生まれた。

うつ病という言葉は、昔はなかった。この言葉によって、うつ病としての立場が社会的に認知され、うつ病である者とそれを診る者という立場が生まれ、薬や診療が生まれ、お金の流れが生まれた。

今あるものは、多かれ少なかれビジネス又はお金の流れに結びついている。

 

これから生まれるもの

これからも新しい言葉は生まれ続けるだろう。新しい技術、新しい概念、新しい職業が生み出され、人間はそこへ関心を寄せ、そしてお金の流れがそこに生まれる。ビジネスが生まれる。

私たちはこうして、ある意味生み出しては飽きての無限ループを繰り返し、経済を回してきたのかもしれない。積み木を積み上げては壊して繰り返し遊ぶ子供のように、掘り終わった金山に見切りをつけて次の山を探す炭鉱夫のように。

その先には、いったい何があるのだろう? 私は、いつか人間は究極の合理性にたどり着くものと考えている。つまりはエネルギーの無駄をなくし、消費をなくし、開発と進歩だけに全てのリソースを費やす方向性。

きっとそのシステムの中に、人間はいないと思うのだ。

さよならの向こう側

誰かのことを考えることで強烈に胸が苦しくなったり、誰かとの関係性がこうなったらいいなと想像したり、その誰かとのやり取りや一緒に過ごした時間のひとつひとつを思い返してみたりする。そのようなことに時間をかけることが次第に減っていき、最近ではほとんどゼロに漸近している。

次第にわかってくるのだ。なにをどうしても、望む結果が得られない場合があるということが。いくら考えても、想像しても、あるいは次はどうしようなどと想定したとしても、その結果望む未来が得られるとは限らない。それが例え、心の底から切望することであっても、夢にまで見るような憧憬だったとしても、そんなことは関係がない。

一緒に長い時間を過ごすということは、必然的にその先を考えることになる。結婚して、子供をつくって、より一層長い時間をこれからも一緒に、という風に。

そんな想像をするたびに、どうしても変えられないものが現れてくる。それは日常の小さな癖かもしれないし、ほんのちょっと習慣が違うだけのことなのかもしれない。あるいは将来の夢といった当人にとって大切なこと、主義主張その他たくさんのことがあるだろう。

それらひとつひとつのことを一緒に点検して、これはあなたに合わせよう、これは私が譲るね、これは諦めよう、これは頑張って取り組もうと、それぞれゆっくり決めていく。そのことができることが結婚であり、そしてそれができるかどうかが、お互いに結婚できるかどうかということを決める最も大きな判断材料である。

あなたと一緒にいると楽しい。趣味がよく合う。落ち着いた時間を過ごせる。愛しい。様々な感情はもちろん大切だ。それがなければ一緒にいることはできない。

しかし、その次の段階として、それ以上の実際的な生活についての相性が問題になる。すり合わせることができるならそれでいい。が、どうしてもお互いに譲ることができなかったら?

1時間一緒にお茶をして、1日一緒に遊びに出かけて、1週間一緒に暮らしてみて、1か月間一緒に家事をしてみて、1年間一緒にすり合わせをして、3年間一緒に良いことも悪いことも経験して、その次の日にどうしても相容れない部分が見つかってしまったら?

一緒にいることが楽しくて、これからも一緒にいたい。今までの視点は「私は」だったけど、これからは「私たちは」で考えていきたい。感情がそう告げていて、ふたりとも一致していたとしても。たったひとつ譲れない部分があるだけで、一緒にいられないということがわかってしまう。

仕方がないことだ。私たちは「大人」なのだし、社会の中で生きていかなければならない。生きていくための基盤にしている部分が相容れなければ、それはもう一緒に生きていくということはできない。どうしようもない。考えても無駄だ。答えは一つしかない。

私たちはいつでも、理性と感情のなかで揺れている。合理が支配するこの社会では、自分の理性こそが神であり、どんなものよりも優先する。もちろん感情よりも、他者の理性よりも、である。そしてこの理性は、時として感情を置き去りにした判断を下す。そんなとき、私たちはどうすればいいのか? 心が望む未来を、理性が否定してしまったら? 考えても無駄なのだろうか? 本当にどうしようもないのだろうか? はじめからもう一度考えてみてはどうだろうか? なにか他に方法はないのだろうか? 今ここにある感情はどう整理すればいいのだろう。ここに、私の中にあるこの感情は、確かにここに存在しているのに。

残念ながら、理性が導き出した答えは、感情で覆すことはできない。それが答えなのである。「大人」ならわかるだろう。社会は「大人」が支配している。その中で一度でも感情が優先された場面があっただろうか。どうしようもないことについて、なんとか足掻いてひっくり返せたことがあるだろうか。

「大人」であるならば、神である理性に従って判断しなければならない。その結果感情を置き去りにしたとしても、その感情の整理は自分の力でなんとかしなければならない。感情を殺してでも、あるいは過ぎていく時間に委ねてでも。とにかくその感情が優先されることは、もう、ない。

理性に否定されてしまったのだ。消滅するしか、道はない。

これが、誰かと一緒に生きていくという判断のどうしようもない困難さである。一緒にいるための100の理由があったとしても、一緒にいられないたったひとつの理由があるだけで、その関係は終わらせる以外道がない。

ただ、ひとつだけ方法がある。それは、理性で自分を作り替えるということだ。

絶対に子供が欲しい人間だったとしても、一緒にいるために子供は諦める。

絶対にフリーランスとして独立して自由に生きたい人間だったとしても、一緒にいるために会社員を選ぶ。

絶対に将来は両親と同居したい人間だったけれども、一緒にいるためにもうそれは諦める。

これが、結婚を継続するということであり、病めるときも健やかなるときも互いを助けるということであり、一緒に生きていくということであり、そして――「私たち」になることだ。

私は私に問う。今日も一日、「私たち」としての判断をしているか、と。

時間を取り戻すための戦い

人間全員に平等に与えられているもの、時間。その時間について、これまでどのような使い方をして、これからどのような使い方をしていきますか?

この記事と一緒に振り返り、そして未来を考えてみませんか?

 

モモ

モモという本がある。この本は言わずと知れた不朽の名作で、時間とはなにかについて考えさせてくれる本である。

物語はモモという女の子が主人公で、その子の周りの大人たちが時間銀行に時間を奪われるところから始まる。時間を奪われた大人たちは以前とは変わってしまい、いつもせかせかとした様子で狂ったように働くようになる。モモはとあるなりゆきから、その時間銀行と対決することになり、奪われた時間を取り戻すために冒険するというはなしだ。

この本では時間というものを非常に流麗な文章で表現している。それは誰の中でも美しく輝いているものであり、かけがえのない大切なものという描写がなされている。この部分の表現が感動的なので、読んだことのない人は一度読んでみることをおすすめする。

 

時間の使い方を選択する

私たちは、日々生きるために時間を使っている。生きるために仕事を行い、生きるために衣食住を満たし、生きるためあらゆることのために時間を使っている。

中でも仕事に使う時間は膨大で、人生の半分以上を費やしているといってもいいほどだ。そうして働くからこそ収入を得ることができ、安定して生活していくことができる。

サラリーマンとして働くなら、この安定の中で生きることになる。サラリーマンはある意味どんな場合でも給料を得られることが保証されているので、リスクを取らない安全な生き方だ。

当然だがリスクを取らないことには大きなリターンはない。これがいい意味でも悪い意味でも安定しているということである。ただ、あくまでリスクを取らないという選択に良し悪しはないと思っている。それはそれぞれの人間の自由であるし、その選択に他人が介入することはどんな場合でも人権侵害である。

しかし今の私は自分自身に疑問を感じている。日々「通勤」に多くの時間を費やし、「作業」に多くの時間を費やし、得られるのは生きていくのにやっとの金額だけ。これから状況が変われば、生きていくことすらままならない程度の金額かもしれない。

このような、時間をお金に変換するような生き方でいいのだろうか? 誰しも平等に持っている時間という輝く花を、このような使い方でお金に換え続けることが正しいことなのか?

資産を築けるわけでもない、スキルが身につくわけでもない、ノウハウをためられるわけでもない。このようなただの「作業」を続けて生きていくことが、本当に自分がやりたいことなのだろうか? そうして得られる収入は、果たして自分が差し出した時間に見合うものなのだろうか?

私は別に、全ての会社員の働き方を否定し、煽ろうという意図があるわけではない。それでいいと自分で判断しているのなら全く問題ないし、どうこう文句を言う筋合いもない(文句を言う筋合いがある場合などないだろう)。

ただ、なにも考えずに思考停止し、周りが同じようにやっているからという理由だけで今の道を選択したのであれば、これは問題である。そこには意思というものがないし、意思のない選択には重みがなく、責任を取ろうという思考も生まれない。

いつでもどんなときでも、人間は自らの頭で思考し、選択しなければならない。選択するからこそ自分の人生を受け止めることができるし、責任を持つことができる。今日より少しでも良い明日にしようと取り組むことができる。

だからこそ、自分の生き方――つまり時間の使い方について主体的に選択することが人間でいることの証だと思うのだ。

 

時間を取り戻すために戦う

私は今、戦っている。

かつては前述したような、ただ周りに合わせて生きているだけの人間だった。なにひとつとして選択せず、望ましくない状況になればいつも自分以外のなにかに責任転嫁していた。完全に思考停止状態である。

きっかけがあって、考え直した。このままでいいのか、そして自分がどうしたいのかを。その結果目標を作ることができたので、今はそのために一歩ずつ積み上げている状況である。

資本主義社会は、持つ者が持たざる者から利益を吸い上げ、持たざる者を思考停止した人形に仕立て上げていく。もちろんこれは資本主義の一面でしかないし、ひとつのものの見方でしかない。ただ今の私は、この持たざる者からの視点でしかものを考えることができないし、この立場から脱出することもできない。

だからこそ私は戦う。このような他者を食いつぶし使い捨てる仕組みの中で、しかも使い捨てられる側の存在として一生を終えるのはまっぴらごめんである。

そのためにまずは一歩ずつ。今の自分にできることを積み上げていく。

目標を見据えるだけでは足りない、現状を受け入れてそこに満足しては届かない。現状を受け入れたうえで、目標と現状の差分を測定し、その差分を埋めるためにできることをひとつずつ積み上げていく。

このことが今の我々にできる最良の一手である。

仕事で信頼される人がやっている、ある1つのシンプルなこと

社会人として仕事をするうえで、どうせなら信頼される人になりたいものです。

周りを見回してみると、信頼される人とされない人、その2種類がいることがわかります。ただ、この信頼される人はどのようなことに取り組んでいるのでしょうか。どうすれば信頼される人になることができるのでしょうか。

仕事とは、作業とは何なのか。それを考えることで信頼を勝ち取る道筋が見えてきます。

 

仕事と作業の違い、説明できますか?

社会ではたくさんの人が働き、それぞれの人がそれぞれの役割を果たすことで調和している。衣食住を支える人、サービスや消費を支える人、数え始めるときりがない。

そしてこれら働くことは、一般的に仕事と呼ばれる。仕事とは、このように社会から見た場合、基本的には誰かの役に立つことを指す。すべての人間の存在は相対的で、自分一人だけの力で生きている人はいない。

ただ、働く人から見た場合の仕事とはなんなのか。誰かの役に立つこと? それも正解だ。では誰かの役に立つということは、具体的にはどのようなことを意味しているのだろうか。

こたえは「価値を生み出す」ことである。商品であれサービスであれ、人間へ提供されるものはそれぞれに価値がある。価値があるからこそ人々はそれを求め、対価としてお金を支払うのである。

そして、一般的に仕事といわれるもののなかに、仕事と作業があることは周知の事実だろう。この仕事と作業、いったい何が違うのかというと、仕事が「価値を生み出す」ことならば、作業は「価値を生産する」という点である。

具体的には、「冬だから暖房器具が売れるだろう→暖房器具をこういう流れで作ろう→作った暖房器具をこういう方法で売ろう→次はなにを提供するか?」という風に、どのような価値を提供するのか、あるいは価値をどのように取り扱うのかという全体的なことを考えるのが価値を生み出すということ、つまりは仕事である。

一方作業はというと、仕事によって決められたことを具体的に実行すること。暖房器具の例でいえば実際に工場で作ること、宣伝を行うこと、店舗で販売することといった、生み出された価値を手に取れるものとして作ること、あるいは体験できるものとして提供することをいう。

このような区分から、会社でいえば社長や役員は仕事をしていることが多いし、社員やアルバイトは作業をしていることが多い。これは貴賤のはなしではなく、単純な役割分担としてである。

しかしながらこの役割分担は、得られる収入の額に直結している場合が多い。なぜなら作業は誰でもできるが、価値を生み出すのは容易ではないからだ。得られる収入を増やしたいと思うならば、この価値を生み出す役割を果たせるようにならなければならないが、これもまた容易ではない。会社のような組織では合議によって意思決定がされるため、自分がやりたいからといってできるものではない。組織でその役割を任される、つまりは役割を果たせるであろうという信頼を得なければならない。

 

信頼される人になるためには?

この信頼はどうすれば得られるのだろうか。答えは簡単、与えられた作業に正しく取り組むことである。

考えてみてほしい。学歴が一流の新入社員が入ってきて、その社員はどんどん仕事を任せてくれと言っているとしよう。本人は大学で勉強してきたことをつらつらと述べ、できるであろう理由を論理的に積み上げてくる。

一方別のスタッフがいたとしよう。彼は入社3年目で学歴はそれほどでもないが、与えられた作業にきちんと取り組み、他の社員からの信頼もある。大きな実績を上げたことはないけれども、任せられればきっと責任感を持って取り組んでくれるに違いない。

さらに別のスタッフがいたとしよう。彼女は入社15年のベテランで、会社内のことはほとんど知り尽くしている。ただし、与えられた仕事に文句を言うことが多いし、他の同僚に指摘ばかりしていて、周りからは疎まれているように観測される。

あなたがこの会社の社長だとしたら、このうち誰に信頼を寄せるだろう。

新入社員には実績がない。実績がない人物が役割を果たすイメージを持つのはかなり難しい。この人ならできるだろう、という予測に根拠がないのだ。またベテラン社員も信頼できない。なぜなら日々文句ばかり言っているし、ベテランだというだけで、新しく作業を任せてもきっとまた「仕事が増えた」などと文句を言って正しく取り組まないだろう。

そこで白羽の矢が立つのが入社3年目の彼である。地味で目立たないかもしれないが、当たり前のことを当たり前に行うことができる。きっとあなたの信頼に応えてくれるだろう。

このように、与えられた作業に正しく取り組むということは地味だが確実に本人の実績になる。目の前の作業が「仕事」ではないことが不満かもしれない。周りのキラキラした同世代の人間を見、自分もそんな世界で働きたいと思うかもしれない。

けれども、まずは目の前の作業にきちんと取り組み、そういうことができる人間であると示さなければならない。地味な作業をできない人間に、いきなり別の仕事を任せようとは思わない。

 

仕事に取り組むのはあなたであって、あなたでない

ただ、あまり根を詰めて取り組みすぎると心と体のバランスが崩れてしまう。人間は心や体が健康であるからこそ生きていけるし、他者と関わることができる。この点は全ての基本なのである。

仕事が辛すぎても、大変過ぎても、よくない。仕事を与えられたからといって、過度に残業したり休日返上してまで働く必要はない。それよりもむしろ、きちんとキャパオーバーであることを周りに相談できる方がよっぽどよい。

仕事をしているあなたは、あなたの分人のうちのひとりである。分人はあなたのひとりというだけであって、あなたの中の全員がその分人に振り回される必要はないのだ。