Heavy Duty

一緒に考えましょう。

雑記をしたためる理由は「ようやく異常な仕事の忙しさが和らいできたから」

最近考えていることを言語化したいと思います。そうです雑記です。

 

死を思う

ずっと死にたいと思っている。

正確には消えたい、である。この世界で生きていると色々な苦痛にさらされる。人類はいう、すなわち「苦痛があるからこそ喜びが輝く」と。しかし僕は、そのような苦痛にさらされてまで喜びが欲しいとは思えないのである。

人間は「生まれること」そのものは選べない。もし僕が「生まれること」を選べたのなら、事前に多種多様な下調べ(人生における苦痛と喜びについて。そしてそれらが人生へ与える影響について)をした上で判断するだろうし、きっと「生まれること」は選ばなかっただろうと想像する。

そのような背景があり、僕は頻繁に死を想像する。

もし仮に、飲めばもう二度と目覚めない薬があるとして、その薬を飲む場面を想像するのだ。

そうすると立ち現れるのは、妻や親兄弟にはきちんと別れを告げておきたいなとか、仕事の引継ぎをきちんと終えておきたいな、といった割と現実的な思考である。そもそも死んだ後のことなど自分には関係ないのだから考える必要はないのだが、ここに生来の生真面目さというか融通の利かなさが現れているような気がする。

また、そのような思考とは別に、自分の中のある気持ちに気がつく。

「ああ、もったいない」である。

なにがもったいないのか? 人生においてやり残したことはないし、別にこれからやりたいこともないと自負している僕であるが、そんな僕にもまだなにか経験しておきたいものがあるというのだろうか? けれど、それが具体的になんであるかを考えても、今の僕にはわからない。

読者の皆様は、人生でやっておきたいことがあるだろうか? それらは個別具体的なものであり、ひとさまの夢を聞いてもなんの参考にもならないと叱られるであろうが、僕は純粋に、世の中の人がどんな夢を持っているのか聞いてみたいのである。

 

自分に合う社会に生きたい

地球はひとつだ。その地球の中には、ひとつの社会(資本主義・生きることが正しい・努力することが正しい・正しいことは正しい)しかない。僕たち人間は、この社会以外に生まれることができないし、別の社会へ移動することもできない。

僕は、他人とかかわるくらいなら死にたいと思っているし、死ぬことを選べるべきだとも思っているし、働かなければ生きていけないのはおかしいと思っているし、働くくらいなら死にたいと思っている。

しかし、これを実行することはできない。なぜならこの社会では、これらの考えは「悪」であるからだ。正しいことが正しい社会では、悪を行うことができない。それが例え、他人に迷惑をかけない悪だとしても、全ての悪は批判され、糾弾され、排斥され、居場所がない。

どうして人間は、生き続けることをやめてはいけないのだろう。

どうして人間には、ひとつの価値観、ひとつの社会しか選択肢がないのだろう。

 

忙しさと精神状態

いつなんどきも「タスク」が頭の片隅にあり、その「タスク」を片づけるべく取り組んでいる間にも次なる「タスク」が発生し、「タスク」をひとつ終えると2つ増えるような状況が続いていた。

それが最近、ようやく落ち着きつつある。

このように異常な忙しさというか異常な「タスク」の量を抱えることになった原因はひとつである。同僚が辞めたからだ。いや、同僚が辞めたのち、本来なら空いた穴を埋めるべく人員を増やすところ、それができず同僚が担っていた仕事がほぼ僕が担うこととなったからである。

そんな異常な状態も落ち着き、少しずつ精神的な安定を取り戻しつつある今の僕であるが、振り返って思うことは「タスク量と精神状態の間には明らかな相関がある」ということである。睡眠中以外は(場合によっては睡眠の最中でさえ)タスクのことで頭がいっぱいになるという状況は、明らかに精神状態を悪化させる。

しかし……と僕は思う。仕事というのは、それはもちろん1年365日一定量であることが理想ではあるけれど、やはり繁忙期や閑散期はあるし、突発的な作業も発生しがちである。仕方ないという言葉で完全に割り切ってしまうにはあまりにもQOLへの影響が甚大ではあるが、仕方がない面がないとは言えないだろう。

これが嫌ならずっと仕事量が一定の職に就くほかないが、そのような職の特徴として単調作業になりがちであり、単調作業は時間をお金に換えるような内容のものであることが多く、つまりは賃金が低いことが多い。

ここでまた、働かなければ生きていけないという問題が再燃する。

はあ……この世のなんとままならないことか。

建国記念の日の意義である「建国をしのぶ」ことについて考えると、持つものと持たざるものの苦悩にたどり着いた

 

本日は日本の国民の祝日のひとつである「建国記念の日」です。

この祝日の意義について、みなさんはご存じでしょうか? 恥ずかしながら、私は調べてみて初めて知りました。

その意義は、建国をしのび、国を愛する心を養うということだそうです。

 

建国をしのぶという言葉の意味

しのぶという言葉は、主に今ここではないどこかの場所、または今一緒にいない誰かのことを思い、懐かしく思うときに使われる。ということは、前提としてある場所やある人物の記憶が自分の中にあり、その記憶を思い返すということを意味する。

しかし、この建国をしのぶという言葉については、やはり当事者意識を持つことが困難であると言わざるを得ない。

なぜなら、私たち国民は全員、生まれた瞬間には日本という国家が存在しており、自動的に国民になるからである。日本が建国されたときの記憶など自分にはないし、その記憶を疑似的に体験できるような経験もないし、そもそも日本という国家自体を当事者意識をもって捉えることそのものが社会において行われていない。

このように当事者意識の低い日本人にとって、建国をしのぶという祝日がもうけられている意義はなんなのだろうか。

それはきっと、自分自身が社会の一部であるということを思い出すきっかけにすることだろう。

私たちは社会の中で生まれ、社会に育てられ、そして社会に奉仕し、社会に見送られ立ち去る。社会とはすなわち国家であり、その国家に我々は守られ、そしてその国家を我々が守らなければならない。

建国ということを自分事として真の意味でしのぶことは不可能だろう。それは仕方がない。ただ、不可能ではあるが漸近することはできる。そうしようとつとめ、そのための行動や思考をすることで、私たちは国家というものをより身近に考えることができる。

 

国家は揺らいでいる

テクノロジーが進化し、今まで人間が行ってきた仕事は少しずつ機械に代替されつつある。そもそも仕事というのは、ある目的を達成するための無機的な行為全般を指すのであるから、このような無機的な行為(外乱の少ない、揺れの少ない、目的まで一本道である行為)は機械が得意とするところであるから当然である。

国家が提供してきたサービスを作るための仕事についても、そのほとんどは機械で代替できるようになるだろう。銀行もそうであるし、行政サービスもそうである。そうなるともはや国家という枠組み自体が不要であるかのように思える。

建国をしのぶことも重要であることは間違いないが、次第に国家という考え方自体が古いものになりつつある、ということだ。

では、いずれ国家という枠組みが消滅したとき、私たちはどのような規範の中で生きていくのだろうか。国家のような強大で絶対的な枠組みは存在しない、自分たちの力だけで全体を維持していくには、どのような形が考えられるだろうか。

ひとつは互いが互いを信頼し、監視し、不正が発生することそのものを防ぐという分散型志向の社会だろう。

その社会はそれぞれに主義主張を有しているため、いくつかの社会が存在することになる。そしてその社会同士は相容れないため、お互いに接触することはない。ただ今までの国家と違うところは、その社会が領土に固定されていないことである。領土に固定されていなければ、少なくとも領土をめぐる争いは生じない。

土地、インフラ、環境、資源その他あらゆるものがあらゆる場所に平等に配分されることにより、物質的な豊かさを争うゼロサムゲームは生じない。

そして人間は、それらの社会を維持するものと参加するものとに分けられるだろう。今の社会が、高所得者低所得者にわけられているように。

 

持つものと持たざるものの苦悩

社会を維持する側の人間というのは、当然ながら知識や技能を有した人間である。それは幼少期からそのように訓練してきたのかもしれないし、持って生まれた性向によるものなのかもしれない。ただ、その能力が個人に固定された属人的なものであることは確かである。

そしてその知識なり技能を活かして社会の構築、維持にあたるわけだが、当然ながらその社会に参加してくる人間から様々な批評を受けることになる。ちょうど今の政府が国民から罵倒されている構図と同じである。

このように、維持する側(持つもの)というのは、参加する側(持たざるもの)からの様々な方向性の圧力にさらされ続けることになる。これは持つものの宿命であり、なかには割に合わないと判断する場合もあるだろう。

一方参加する側はどうかというと、こちらは自分が所属する社会を選ぶことができる。男女差別を良しとしない社会、金銭的な不平等を良しとしない社会、働くことが必要ない社会……選択肢は無限にある。しかも1度参加しても合わなければ変えればよい。実に気楽である。

ただ、参加する側というのは知識や技能を有しない人間である。これらの人間は自分でなにかを生み出すことができないため、自己実現の面で大きな問題を抱え続ける。生まれてから死ぬまでの時間を、常に社会を維持する歯車としての役割を果たすために費やすからだ。

このように、人間が所属する社会を人間が構築する限り、私たちはどちらかの側に属することになり、なんらかの苦悩を抱え続けることになる。これは宿命である。

非人間的な存在が社会を構築する未来がくるのなら、話は別であるのだが。

知識の壁/思考の壁/バカの壁

あなたがだれかと話をしているとき、壁を感じることはないだろうか。

テニスの話をしようにも、相手がテニスについてよく知らないため、盛り上がって話をすることができない。

政治の話をしようにも、相手があなたとは違う考え方や政治的立場をとっていて、うかつな話ができない。

数学や論理の話をしようにも、相手がそれらのことを苦手としていて、又は苦手であると思い込んでいて、いくら伝えても理解してもらえない。

共通の知識がなければ、その点について議論することはできない。

共通の思考がなければ、どうしても相手の立場を否定しようとしてしまう。

共通のロジックがなければ、こちらのロジックが伝わらず理解してもらえない。

このように、会話をはじめとするコミュニケーション全般には、あらゆる前提を必要としてしまう場面が多くある。

しかしこの前提、お互いに完璧にすり合わせることはできるのだろうか。

もともと長期の関係がある相手とならば、お互いのバックグラウンドや共通前提の共有が進んでいると考えられるが、初めましての相手にそのようなことをするのは不可能である。

言葉は概念の記号化であり、その概念が個人の中で理解されているという前提のもとで成り立っているし、それが言葉の機能である。

そしてこの言葉を尽くさなければ、求めるコミュニケーションは得られない。

きっと、互いの前提をどれだけ共有できているかどうかが、円滑なコミュニケーションの根本になるのだろう。

しかし…そのようなことをやっていてはきりがない、という場面も確かに存在する。

会議の場で全員の前提をすり合わせることは不可能だし、個人同士でも無限に時間があるわけではない。

では、我々はコミュニケーションを取るにあたり、どのような点に注意すればいいのだろうか。

私は、コミュニケーションにはいくつか種類があると思っている。

明確な達成目標のあるコミュニケーションと、それがないコミュニケーションである(このふたつはMECEである)。

明確な達成目標とは、例えば意思決定をする会議であるとか、論点を伝えるミーティングのようなものである。これらは達成目標が定められているので、その目標を達成するためにはどうすればいいかを考えればよい。

それは事前に前提知識をすり合わせておいたり、目標を共有しておいたりすることだろう。

一方明確な達成目標のないコミュニケーションとはどのような場面だろうか。これはいわずもがな、雑談である。

雑談というのは、相手のことを知り自分のことを知ってもらうための絶好の機会である。ただ、そのような漠然とした目標であるがゆえに論点が発散してしまい、逆に困難であると言わざるを得ない。

ではこのようなとき、我々はどのような点に注意してコミュニケーションを取ればいいのだろうか。

私はこの点について、壁打ちという考え方を実践したいと考えている。

つまり、相手が投げてくるボールを、こちらはただ受け止めるのである。受け止めて理解に努める。そうすることで相手は、投げたボールが壁に当たって返ってくることになる。返ってきたボールを受け止め、また相手はボールを投げる。

この方法には利点が3つある。ひとつはこちらが相手の考え方を理解できる機会を得られること。もうひとつは相手が自分自身の思考の整理ができること。そして最後に、これが最も重要であるのだが、こちらが相手を理解しようとしている姿勢が相手に伝わるということである。

コミュニケーションの基本は、理解してから理解されるということである。

知識などの前提が共有できないからといって、コミュニケーションを諦めるべきではない。逆に言えば前提の共有に努めることによって、円滑なコミュニケーションは実現可能だと私は考える。

様々なコミュニケーションエラーが発生している現代で、この点は注意していきたいものである。

教育が問題なのは、学ぶことそのものを教えていないこと

プログラミングを義務教育に導入するという論点がある。

お金や税金の教育を、義務教育に導入すべきだという論点がある。

これら知識や技術を義務教育に含めるべきだという論点は、前提として必要な知識は義務教育の時点で詰め込むべきだという価値観の存在がうかがえる。

しかし、本当にそうだろうか?

思い出してほしいのだが、国語だろうが算数だろうが、理科だろうが社会だろうが、体育だろうが家庭科だろうが、楽しいと感じることができる教科には前のめりで取り組めたと思う。

これは、とにかくなにか行動するときにおいて楽しいかどうかが原動力になることが多いためである。

楽しいかどうかが大切なのであれば、どうすれば楽しめるか教えればよい。

どうすれば楽しめるのか教えることは、かなり困難なことであると想像される。

しかし、本来はそのような困難なことを教える場が学校であり義務教育なのではないだろうか。

加減乗除や熟語など当たり前の道理や調べればわかるようなことを教えても、それは別にその場ですることが必須ではない。なぜなら調べればわかるからだ。

単純な知識な技能を詰め込んでも、そこから先に進むための方法が本人の中になければ、それは宝の持ち腐れである。

なぜなら、知識や技能は日々進化して更新されていくものであり、ある時点での最新の情報など、そこから10年経てば価値がなくなるからだ。

そうではない。そうではないはずだ。

人間には、学び続ける力がある。

自分の力で学び、自分自身を革新していく力がある。

真に必要なのは、知識や技能ではない。知識や技能を自ら学び、自分のものにしていく能力だ。学ぶことが楽しくないなら、それを楽しむにはどうすればいいのかという技術だ。

……というようなことが、きっと学習指導要綱には書いてあるだろう。読まなくても想像はつく。

しかしこれは、どれほど現場に活かされているのだろう。

現場の教師たちは、教育の真の意味を理解しているのだろうか。

そして、教師によって質の差がある現代、教師ガチャが発生してしまう現代、ハズレ教師にあたってしまった人間は、どうすればいいのだろうか。

自分で学び方を学ぶためには、どうすればいいのだろうか。

学び方を学ぶサービスは、この日本にあるのだろうか。

自粛疲れの要因分析

自粛疲れという言葉があります。報道でもよく使われています。

言葉というのは概念を記号化する機能があり、1度記号化された概念は言葉として独り歩きしてしまうことが多いです。注意が必要だと思います。

この自粛疲れという言葉、どのような概念なのか少し考えてみたいと思います。また、その分析の過程で対策も見えてくるのではないでしょうか。

 

なぜ疲れるのか?

在宅勤務が広がり、人によっては満員電車での通勤から解放された方もいるのではないだろうか。そうして物理的な移動が必要なくなれば肉体的負担は減り、そもそも疲れるということ自体が減るのではないだろうか。

また、不要不急な外出の自粛により、これまた外出する機会は減っている。こちらも肉体的負担が減る方向性である。さらに、他人と接触する機会も減少している。

これらは全て、エネルギー消費が減る方向性である。にもかかわらず、自粛疲れとはこれいかに?

このことを考えるには、まず疲れの種類について整理する必要があるだろう。つまり肉体的な疲れと非肉体的な疲れである。

運動により筋肉を酷使すると疲れる。これは肉体的な疲れである。一方ストレスにさらされたり、意思決定が続いたりすると疲れる。こちらは非肉体的な疲れである。

前述した通勤や移動や人とのコミュニケーションは肉体を使う行為であるので、肉体的な疲れである。これはその行為自体が減れば自動的に減る。自明である。

そうであるならば、この自粛疲れという言葉は、自粛によるなんらかの精神的な影響により、非肉体的な疲れが現れている状態のことを指す言葉であろうと考えられる。

疲れを考える場合において、肉体的な疲れと非肉体的な疲れはMECEである。そして自粛疲れは非肉体的な疲れの十分条件であると考えられる。

 

非肉体的な疲れとは?

非肉体的な疲れの中にも種類が2つある。ひとつは精神的な疲れ、そしてもうひとつは神経的な疲れである。これもまたMECEである。

精神的な疲れとは、様々な精神的なストレスによる疲れである。例えば仕事で重圧がかかるような場合、人間関係が億劫であるような場合、自らの意思決定と現実との間に乖離がある場合などである。この疲れが現れると、行動力が減退したり抑うつになったりする。

一方神経的な疲れとは、集中力を消費したことによるストレスである。例えば繊細な作業が続いた場合や、ひとつのことを集中して続けた場合などである。この疲れが現れると、ミスを連発したり記憶力が低下したりする。

 

自粛疲れの正体

このうち、自粛疲れはどちらの寄与が大きいだろうか。これはおそらく精神的な疲れの方であろう。

神経的な疲れは、働いたり学業に励んだりという何らかの社会的な活動をしている限り付き合っていくしかないものである。これは新型コロナウイルス感染症が流行する前から変わっていないし、ある意味免疫があるというか、慣れている。

確かにこれまでとは違う環境(在宅勤務やオンライン授業など)での集中を強いられる場面はあるだろうが、それは構成要素が変化しただけで根本的な部分は変わらない。そうであるならばこの影響は少ないだろう。

そして精神的な疲れである。

これは外出自粛により外出という気分転換ができなくなったことへのストレス、経済活動の減退により経済状況が悪化したことへのストレス、環境が変わったことによりこれまでとは違う生活様式を強いられるストレスと、あらゆるものが考えられる。が、極めつけは「コントロールできない」ことのストレスである。

人間は自分で自分の行動を決めることができる。どこへ行こうと、なにをしようと、何を考えようと、法律やルールに反しない範囲であれば全てが自由である。いや、自由だったと言うべきだろう。

外出自粛により行動が制限され、そのことによって自分自身の自由が減った。これはこれまでコントロールできていた部分がコントロールできなくなったことを意味する。端的に言えば、これまでの自由奔放な振る舞いを我慢しなければならなくなったのである。

この、我慢によりコントロールできない部分が増え、自由が制限されたことが自粛疲れの正体であると私は思う。

 

我慢するという行為の構造的な欠陥

我慢するということは、自分の自由意思を押さえつけ、そうできないことを耐え忍ぶ精神活動のことをいう。

しかしこの我慢するという活動、私には非常に矛盾したもののように思える。

我慢するということは、前提として自分の意志のまま自由奔放に活動したいという意思があり、そしてそのように活動できる世界であるべきだという価値観が見え隠れしている。

しかし、現代社会はそのような仕組みにはなっていない。あらゆる人間のあらゆる自由を認めてしまうと、その自由同士が干渉してしまい、結果的に不自由な世界になってしまう。

だからこそ、人間は社会を作りルールを作り、その枠組みの中でなら自由であるという保証をし、それを人権と呼んだ。これが現代社会の仕組みである。

そうであるならば、この新型コロナウイルス感染症の流行により新たなルールが作られたとき、それは既存の枠組みに新たな枠組みが上書きされただけであり、枠組みの中での自由という現代社会の仕組みそのものはなにも変わっていない。

よって、外出自粛だから我慢するという表現は間違っており、我々現代人に与えられた選択肢は「ルールが変わってもそのルールに従い続ける」という1つしかない(あるいはルールから逸脱することも選択肢であろうが、そうすると社会的に抹殺されるため現実的ではない)。

あたかも社会が新型コロナウイルス感染症によって変えられてしまったかのような受け止め方をされているが、この社会の仕組み自体はなに一つ変わっていないのである。

 

決定的ななにかが変わってしまったわけではない。

そうであるならば、私たちができることはなんだろうか。

この社会の現在形を受け止め、ルールの現在形を受け止め、その仕組みの中でどう幸せを選択するかということではないだろうか。

自粛疲れという言葉を使うこと自体が、本質を見失わせる思考停止的行為であると私は思う。

感情のゆくえ

「あなたが投げたそのボール、誰も受け取らなかったとしたら、誰のものですか?」

「誰も受け取らないんだったら、それはまだ俺のものだろう」

「では先程、あなたが言った暴言を私は受取りませんでしたが、その言葉は誰のものでしょうか? どこへ行くのでしょうか?」

 

昔の話

昔、恋人にプレゼントを贈ったことがある。携帯電話だ。これがあればいつでも話ができるという理由からだった。

いろいろあり、その携帯電話が私の手元へ戻ってくることになった。正確にはSIMだけだったが。

私の力になってくれました、今までありがとう、という言葉とともに。

なんとも表現しがたい感情になったことを覚えている。

相手へ贈ったものが戻ってきたという虚しさ。自分のこれまでの行いの全てに意味がなかったかのような悲しみ。こちらの感情の動きを考えない相手への怒り。もう二度と元には戻らないという喪失感。

相手のことを考えながら選んだ贈り物。その贈り物が自分の手に戻ってきたとき、過去の自分が相手のことを考えた時間は、その時の感情は、気持ちは、どこへ行くのだろうか。

私には、贈り物と同時に、それらすべての私の感情や気持ちを私自身に戻されたように感じられた。

相手がどのように考えていたかはわからない。添えられていた言葉も、当時の相手が紡ぐことのできる最大限の感謝だったのだと思う。謝られていたら、それこそすべてを否定された気持ちになっていただろう。

そしてそのとき、私の中へ戻された感情は、今もどこへもいかず、私自身の中にある。私の中で生まれ、旅をし、そしてここへ戻ってきた。

もう、どこへも行かない。

 

贈り物と、贈り物に紐づけられた感情

モノというのは実存である。これは圧倒的な説得力を持つ。なぜなら目で見ることができるし、手で触ることができるからだ。五感を使って認識できるということは、それだけで有無を言わさぬ存在感がある。

一方感情には形がない。気持にも形がない。形がないものは、常に相対的な存在でしかない。言葉によって紡がれ、態度によって示され、そしてモノによって伝えられる。形がないからこそ、私たちはそれを伝えることに必死になり、ありとあらゆる手段を講じて実存に漸近させようとする。しかしそれはあくまでも漸近であり、一致することはない。どこまで行っても近づくだけで交わらない、空しく儚い行為である。

これら一連の行為の中で、感情は贈り物に紐づけられる。あたかもその贈り物が、そのとき感情が存在したことの証であるかのように。

そして送り主は、そのモノの存在を何度も確認し、安堵する。あの時の私の気持ちは、相手に受け入れてもらえることができた。そして今も相手の傍にあり、私の気持ちも共にある、と。

感情とモノとの紐づけは、なにも自分対他者の関係に留まらない。自分の内側の世界だけの話でも起こりえる。

あのとき苦難を乗り越えた勲章として、今も輝くタテや賞状。自分が子供だったとき、大人になりかけていたとき、そして大人になりたてだったときの思い出の品。それら全てのモノは、そのときの感情を保存し、再生する機能を持つ。そして私たち人間は、ときに立ち止まって過去を振り返るが、その際の道しるべになるのがモノなのである。

こうしてみると、モノを捨てられないひとというのは、モノそのものよりも、きっとそこに込められた記憶や感情といった過去を捨てられない、あるいはモノを捨てることによってそれらが失われてしまうのだと勘違いしている、もしくはモノがなければ過去をたどることができないと誤解しているのだろう。

 

確かめるという行為

私たち人間はいつも確かめている。

自分はどこからきて、どこにいて、どこへいくのか。

自分の記憶は残っているか、自分の感情は受け入れられているか。

人生が続き、経験が増え、関わる人間が増えるにつれて、その確かめる対象も無限に増えていく。

しかしこの確かめる、確認するという行為は、果たして価値や正しさのある行為なのだろうか。

自分の目指す姿を再確認したり、忘れがちな日々の取り組みを確かめるような場合には、きっと価値がある行為だろう。なぜなら人間は時折振り返り、今いる場所を確認しなければ目的地へたどり着けないからだ。

しかし、記憶や感情を確認する行為に、どれほどの正しさがあるのだろう。記憶は、現在に直接影響を及ぼすことはなく、感情は、どれだけ確かめたとしても手で触れることはできない。確認することによって得られるものが安堵のみであるならば、何かを生み出す行為ではないということは言えるだろう。

そうであるならば、このような回顧の情がわいたとき、私たちはどうすればいいのだろうか。

過去を振り返り、これまでの感情を確かめる行為は、私たちの心を癒してくれる。この事実は否定しようがない。

回顧はどこへも行かない、つまりはなにかを生み出す行為ではないということを念頭に置きつつ、ただ自らを癒す行為としての時間であると受け止めた上で確かめるなら問題ないだろう。そうではなく、ただ過去を振り返ることだけに没頭し、未来を見ないような状況になることは避けなければならない。

人の心に巣食うモノ

今週のお題「鬼」について書いてみましょう。

 

鬼を生み出すのは人の心

私は鬼は実存ではないと思っている。観測できたことがないからだ。

ではなぜ、これほどまでに共通言語として存在し、受け入れられているのか。昔話には登場するし、四季の催しにまでなっているこの鬼とは、いったい何なのか。

その正体は、人の心が作り出す恐怖、畏怖、畏敬、崇拝の象徴のようなものだと私は思う。

100年前にはうつ病が存在しなかったように、100年前には体罰が存在しなかったように、われわれ人間は、名前を付けることによってその存在を認識する。

神仏も妖怪も同じである。名前をつけ、逸話を創作し、血の通った存在であるかのように仕立て上げる。これは物語の役割のひとつであるともいえるし、人間の心の作用そのものであるとも言える。言語の効用としての考察をしても面白いかもしれない。

われわれ人間は思考するが、その思考は必ず言語によって行われる。つまり、言語として存在しない概念については思考することができない。

様々に存在する概念や論点は、あらゆる言語化を尽くすことで説明され、ときに固有名詞を与えられることによって定義される。シェアリングエコノミー、クラウドコンピューティング、分散型ネットワークなど、新しい言葉はどんどん生まれる。

鬼という概念は、きっとその流れの中でうまれたもののひとつなのだろう。昔から日本人は、自然や現象そのものに神が宿っていると考えていた。神道における八百万の神信仰である。

日本人は自然や現象のひとつひとつに神が宿っていると考えることで、それぞれに対して敬意を払い、自分を戒めて生きてきた。その流れの中で、道理に反した行いや不届者を処罰する存在としての鬼ができあがったのだろう。

 

現代人の心に住まう鬼

人の考えや思考や思い込みは、その人にとっての強力な土台となり、その人そのものをつくっていく。このようなものも、鬼のひとつであると私は思う。

他人を信じなければならない。他人に迷惑をかけてはいけない。

自分に正直に生きなければならない。自分を大切にしなければならない。

そのような思い込みは、ときにその人本人を救い、ときに傷つけどうしようもなく追い詰める。これら人の心に住まう鬼の中で、現代人の中に最も多く住んでいるのは、思考停止の鬼だろう。

なにか問題が起きたとき、真っ先にその責任者を追求する。

なにか自分の身に不利なことが起こったとき、真っ先に自分以外に原因を求める。

これらはこれまでの人間がとってきた典型的な対処であり対応である。何か悪いことが起こったとき、とにかくその諸悪の根源であるものを滅しなければならないという思い込みである。

しかし、本当にそうだろうか?

もちろん誤りやミスや不祥事や事故は起きないに越したことはないし、その影響度をはかって対策しておくことは管理者の責任ではある。それでも起きてしまったことについて、例えば人命がかかわっていたりすると、仕方がないで済ませられないことも多いだろう。

ただ、それらのことについて責任を追及し、きっと誰よりもそのことについての知識を有している責任者を辞任させることが、本当に問題の解決になっているのだろうか?

大切なのは、なぜそうなってしまったのか、どうすれば防げたのか、今後どうやって防いでいくのかについて、起こってしまった出来事を教訓に学ぶことなのではないだろうか。

悪いことが起こり、責任を追及し、そして責任者を追い出して終わり。それでいいのだろうか。それではまた同じことが繰り返される。思考停止も甚だしいと思うのは私だけだろうか。

起こってしまったことはある意味仕方がないのだから、責任を追及することよりも、それを次にどう活かすかを考えることの方がより生産的であるし、人間らしいと言えるのではないだろうか。

 

鬼が消える日

人間はいつまでたってもくだらないどうでもよいことについて争い続けている。神がどうとか聖地がどうとか、人権問題がどうとか経済格差がどうとか、そんなことはどうでもよい。

大切なことはただ一つ、我々はよりよく生きるためになにをすればいいのか。その一点である。

それを他の枝葉末節の論点とすり替えてさも大切な論点であるかのように取り扱うから話がややこしくなる。

人間の命を尊重すること、より良く生きていくこと、これ以上に大切な論点がどこにあるだろうか。

争いなどエネルギーの無駄である。そこに注がれたエネルギーの総量と比較して、得られる「勝者」という称号のなんと意味のないことか。勝ち負けで物事を決めている限り、その勝者はいつかは敗者になるし、いつまでたっても挑戦者が現れ続ける。

この世の中の絶対的な真義によってすべての物事が判断される、そのような非民主主義の到来に私は憧れてやまない。

勝ち負けや善悪を超えたその世界では、真の意味での平和が構築され、正しさのみが存在する(鬼のいない)楽園となるだろう。