Heavy Duty

一緒に考えましょう。

建国記念の日の意義である「建国をしのぶ」ことについて考えると、持つものと持たざるものの苦悩にたどり着いた

 

本日は日本の国民の祝日のひとつである「建国記念の日」です。

この祝日の意義について、みなさんはご存じでしょうか? 恥ずかしながら、私は調べてみて初めて知りました。

その意義は、建国をしのび、国を愛する心を養うということだそうです。

 

建国をしのぶという言葉の意味

しのぶという言葉は、主に今ここではないどこかの場所、または今一緒にいない誰かのことを思い、懐かしく思うときに使われる。ということは、前提としてある場所やある人物の記憶が自分の中にあり、その記憶を思い返すということを意味する。

しかし、この建国をしのぶという言葉については、やはり当事者意識を持つことが困難であると言わざるを得ない。

なぜなら、私たち国民は全員、生まれた瞬間には日本という国家が存在しており、自動的に国民になるからである。日本が建国されたときの記憶など自分にはないし、その記憶を疑似的に体験できるような経験もないし、そもそも日本という国家自体を当事者意識をもって捉えることそのものが社会において行われていない。

このように当事者意識の低い日本人にとって、建国をしのぶという祝日がもうけられている意義はなんなのだろうか。

それはきっと、自分自身が社会の一部であるということを思い出すきっかけにすることだろう。

私たちは社会の中で生まれ、社会に育てられ、そして社会に奉仕し、社会に見送られ立ち去る。社会とはすなわち国家であり、その国家に我々は守られ、そしてその国家を我々が守らなければならない。

建国ということを自分事として真の意味でしのぶことは不可能だろう。それは仕方がない。ただ、不可能ではあるが漸近することはできる。そうしようとつとめ、そのための行動や思考をすることで、私たちは国家というものをより身近に考えることができる。

 

国家は揺らいでいる

テクノロジーが進化し、今まで人間が行ってきた仕事は少しずつ機械に代替されつつある。そもそも仕事というのは、ある目的を達成するための無機的な行為全般を指すのであるから、このような無機的な行為(外乱の少ない、揺れの少ない、目的まで一本道である行為)は機械が得意とするところであるから当然である。

国家が提供してきたサービスを作るための仕事についても、そのほとんどは機械で代替できるようになるだろう。銀行もそうであるし、行政サービスもそうである。そうなるともはや国家という枠組み自体が不要であるかのように思える。

建国をしのぶことも重要であることは間違いないが、次第に国家という考え方自体が古いものになりつつある、ということだ。

では、いずれ国家という枠組みが消滅したとき、私たちはどのような規範の中で生きていくのだろうか。国家のような強大で絶対的な枠組みは存在しない、自分たちの力だけで全体を維持していくには、どのような形が考えられるだろうか。

ひとつは互いが互いを信頼し、監視し、不正が発生することそのものを防ぐという分散型志向の社会だろう。

その社会はそれぞれに主義主張を有しているため、いくつかの社会が存在することになる。そしてその社会同士は相容れないため、お互いに接触することはない。ただ今までの国家と違うところは、その社会が領土に固定されていないことである。領土に固定されていなければ、少なくとも領土をめぐる争いは生じない。

土地、インフラ、環境、資源その他あらゆるものがあらゆる場所に平等に配分されることにより、物質的な豊かさを争うゼロサムゲームは生じない。

そして人間は、それらの社会を維持するものと参加するものとに分けられるだろう。今の社会が、高所得者低所得者にわけられているように。

 

持つものと持たざるものの苦悩

社会を維持する側の人間というのは、当然ながら知識や技能を有した人間である。それは幼少期からそのように訓練してきたのかもしれないし、持って生まれた性向によるものなのかもしれない。ただ、その能力が個人に固定された属人的なものであることは確かである。

そしてその知識なり技能を活かして社会の構築、維持にあたるわけだが、当然ながらその社会に参加してくる人間から様々な批評を受けることになる。ちょうど今の政府が国民から罵倒されている構図と同じである。

このように、維持する側(持つもの)というのは、参加する側(持たざるもの)からの様々な方向性の圧力にさらされ続けることになる。これは持つものの宿命であり、なかには割に合わないと判断する場合もあるだろう。

一方参加する側はどうかというと、こちらは自分が所属する社会を選ぶことができる。男女差別を良しとしない社会、金銭的な不平等を良しとしない社会、働くことが必要ない社会……選択肢は無限にある。しかも1度参加しても合わなければ変えればよい。実に気楽である。

ただ、参加する側というのは知識や技能を有しない人間である。これらの人間は自分でなにかを生み出すことができないため、自己実現の面で大きな問題を抱え続ける。生まれてから死ぬまでの時間を、常に社会を維持する歯車としての役割を果たすために費やすからだ。

このように、人間が所属する社会を人間が構築する限り、私たちはどちらかの側に属することになり、なんらかの苦悩を抱え続けることになる。これは宿命である。

非人間的な存在が社会を構築する未来がくるのなら、話は別であるのだが。