教育が問題なのは、学ぶことそのものを教えていないこと
プログラミングを義務教育に導入するという論点がある。
お金や税金の教育を、義務教育に導入すべきだという論点がある。
これら知識や技術を義務教育に含めるべきだという論点は、前提として必要な知識は義務教育の時点で詰め込むべきだという価値観の存在がうかがえる。
しかし、本当にそうだろうか?
思い出してほしいのだが、国語だろうが算数だろうが、理科だろうが社会だろうが、体育だろうが家庭科だろうが、楽しいと感じることができる教科には前のめりで取り組めたと思う。
これは、とにかくなにか行動するときにおいて楽しいかどうかが原動力になることが多いためである。
楽しいかどうかが大切なのであれば、どうすれば楽しめるか教えればよい。
どうすれば楽しめるのか教えることは、かなり困難なことであると想像される。
しかし、本来はそのような困難なことを教える場が学校であり義務教育なのではないだろうか。
加減乗除や熟語など当たり前の道理や調べればわかるようなことを教えても、それは別にその場ですることが必須ではない。なぜなら調べればわかるからだ。
単純な知識な技能を詰め込んでも、そこから先に進むための方法が本人の中になければ、それは宝の持ち腐れである。
なぜなら、知識や技能は日々進化して更新されていくものであり、ある時点での最新の情報など、そこから10年経てば価値がなくなるからだ。
そうではない。そうではないはずだ。
人間には、学び続ける力がある。
自分の力で学び、自分自身を革新していく力がある。
真に必要なのは、知識や技能ではない。知識や技能を自ら学び、自分のものにしていく能力だ。学ぶことが楽しくないなら、それを楽しむにはどうすればいいのかという技術だ。
……というようなことが、きっと学習指導要綱には書いてあるだろう。読まなくても想像はつく。
しかしこれは、どれほど現場に活かされているのだろう。
現場の教師たちは、教育の真の意味を理解しているのだろうか。
そして、教師によって質の差がある現代、教師ガチャが発生してしまう現代、ハズレ教師にあたってしまった人間は、どうすればいいのだろうか。
自分で学び方を学ぶためには、どうすればいいのだろうか。
学び方を学ぶサービスは、この日本にあるのだろうか。