Heavy Duty

一緒に考えましょう。

自粛疲れの要因分析

自粛疲れという言葉があります。報道でもよく使われています。

言葉というのは概念を記号化する機能があり、1度記号化された概念は言葉として独り歩きしてしまうことが多いです。注意が必要だと思います。

この自粛疲れという言葉、どのような概念なのか少し考えてみたいと思います。また、その分析の過程で対策も見えてくるのではないでしょうか。

 

なぜ疲れるのか?

在宅勤務が広がり、人によっては満員電車での通勤から解放された方もいるのではないだろうか。そうして物理的な移動が必要なくなれば肉体的負担は減り、そもそも疲れるということ自体が減るのではないだろうか。

また、不要不急な外出の自粛により、これまた外出する機会は減っている。こちらも肉体的負担が減る方向性である。さらに、他人と接触する機会も減少している。

これらは全て、エネルギー消費が減る方向性である。にもかかわらず、自粛疲れとはこれいかに?

このことを考えるには、まず疲れの種類について整理する必要があるだろう。つまり肉体的な疲れと非肉体的な疲れである。

運動により筋肉を酷使すると疲れる。これは肉体的な疲れである。一方ストレスにさらされたり、意思決定が続いたりすると疲れる。こちらは非肉体的な疲れである。

前述した通勤や移動や人とのコミュニケーションは肉体を使う行為であるので、肉体的な疲れである。これはその行為自体が減れば自動的に減る。自明である。

そうであるならば、この自粛疲れという言葉は、自粛によるなんらかの精神的な影響により、非肉体的な疲れが現れている状態のことを指す言葉であろうと考えられる。

疲れを考える場合において、肉体的な疲れと非肉体的な疲れはMECEである。そして自粛疲れは非肉体的な疲れの十分条件であると考えられる。

 

非肉体的な疲れとは?

非肉体的な疲れの中にも種類が2つある。ひとつは精神的な疲れ、そしてもうひとつは神経的な疲れである。これもまたMECEである。

精神的な疲れとは、様々な精神的なストレスによる疲れである。例えば仕事で重圧がかかるような場合、人間関係が億劫であるような場合、自らの意思決定と現実との間に乖離がある場合などである。この疲れが現れると、行動力が減退したり抑うつになったりする。

一方神経的な疲れとは、集中力を消費したことによるストレスである。例えば繊細な作業が続いた場合や、ひとつのことを集中して続けた場合などである。この疲れが現れると、ミスを連発したり記憶力が低下したりする。

 

自粛疲れの正体

このうち、自粛疲れはどちらの寄与が大きいだろうか。これはおそらく精神的な疲れの方であろう。

神経的な疲れは、働いたり学業に励んだりという何らかの社会的な活動をしている限り付き合っていくしかないものである。これは新型コロナウイルス感染症が流行する前から変わっていないし、ある意味免疫があるというか、慣れている。

確かにこれまでとは違う環境(在宅勤務やオンライン授業など)での集中を強いられる場面はあるだろうが、それは構成要素が変化しただけで根本的な部分は変わらない。そうであるならばこの影響は少ないだろう。

そして精神的な疲れである。

これは外出自粛により外出という気分転換ができなくなったことへのストレス、経済活動の減退により経済状況が悪化したことへのストレス、環境が変わったことによりこれまでとは違う生活様式を強いられるストレスと、あらゆるものが考えられる。が、極めつけは「コントロールできない」ことのストレスである。

人間は自分で自分の行動を決めることができる。どこへ行こうと、なにをしようと、何を考えようと、法律やルールに反しない範囲であれば全てが自由である。いや、自由だったと言うべきだろう。

外出自粛により行動が制限され、そのことによって自分自身の自由が減った。これはこれまでコントロールできていた部分がコントロールできなくなったことを意味する。端的に言えば、これまでの自由奔放な振る舞いを我慢しなければならなくなったのである。

この、我慢によりコントロールできない部分が増え、自由が制限されたことが自粛疲れの正体であると私は思う。

 

我慢するという行為の構造的な欠陥

我慢するということは、自分の自由意思を押さえつけ、そうできないことを耐え忍ぶ精神活動のことをいう。

しかしこの我慢するという活動、私には非常に矛盾したもののように思える。

我慢するということは、前提として自分の意志のまま自由奔放に活動したいという意思があり、そしてそのように活動できる世界であるべきだという価値観が見え隠れしている。

しかし、現代社会はそのような仕組みにはなっていない。あらゆる人間のあらゆる自由を認めてしまうと、その自由同士が干渉してしまい、結果的に不自由な世界になってしまう。

だからこそ、人間は社会を作りルールを作り、その枠組みの中でなら自由であるという保証をし、それを人権と呼んだ。これが現代社会の仕組みである。

そうであるならば、この新型コロナウイルス感染症の流行により新たなルールが作られたとき、それは既存の枠組みに新たな枠組みが上書きされただけであり、枠組みの中での自由という現代社会の仕組みそのものはなにも変わっていない。

よって、外出自粛だから我慢するという表現は間違っており、我々現代人に与えられた選択肢は「ルールが変わってもそのルールに従い続ける」という1つしかない(あるいはルールから逸脱することも選択肢であろうが、そうすると社会的に抹殺されるため現実的ではない)。

あたかも社会が新型コロナウイルス感染症によって変えられてしまったかのような受け止め方をされているが、この社会の仕組み自体はなに一つ変わっていないのである。

 

決定的ななにかが変わってしまったわけではない。

そうであるならば、私たちができることはなんだろうか。

この社会の現在形を受け止め、ルールの現在形を受け止め、その仕組みの中でどう幸せを選択するかということではないだろうか。

自粛疲れという言葉を使うこと自体が、本質を見失わせる思考停止的行為であると私は思う。