Heavy Duty

一緒に考えましょう。

感情のゆくえ

「あなたが投げたそのボール、誰も受け取らなかったとしたら、誰のものですか?」

「誰も受け取らないんだったら、それはまだ俺のものだろう」

「では先程、あなたが言った暴言を私は受取りませんでしたが、その言葉は誰のものでしょうか? どこへ行くのでしょうか?」

 

昔の話

昔、恋人にプレゼントを贈ったことがある。携帯電話だ。これがあればいつでも話ができるという理由からだった。

いろいろあり、その携帯電話が私の手元へ戻ってくることになった。正確にはSIMだけだったが。

私の力になってくれました、今までありがとう、という言葉とともに。

なんとも表現しがたい感情になったことを覚えている。

相手へ贈ったものが戻ってきたという虚しさ。自分のこれまでの行いの全てに意味がなかったかのような悲しみ。こちらの感情の動きを考えない相手への怒り。もう二度と元には戻らないという喪失感。

相手のことを考えながら選んだ贈り物。その贈り物が自分の手に戻ってきたとき、過去の自分が相手のことを考えた時間は、その時の感情は、気持ちは、どこへ行くのだろうか。

私には、贈り物と同時に、それらすべての私の感情や気持ちを私自身に戻されたように感じられた。

相手がどのように考えていたかはわからない。添えられていた言葉も、当時の相手が紡ぐことのできる最大限の感謝だったのだと思う。謝られていたら、それこそすべてを否定された気持ちになっていただろう。

そしてそのとき、私の中へ戻された感情は、今もどこへもいかず、私自身の中にある。私の中で生まれ、旅をし、そしてここへ戻ってきた。

もう、どこへも行かない。

 

贈り物と、贈り物に紐づけられた感情

モノというのは実存である。これは圧倒的な説得力を持つ。なぜなら目で見ることができるし、手で触ることができるからだ。五感を使って認識できるということは、それだけで有無を言わさぬ存在感がある。

一方感情には形がない。気持にも形がない。形がないものは、常に相対的な存在でしかない。言葉によって紡がれ、態度によって示され、そしてモノによって伝えられる。形がないからこそ、私たちはそれを伝えることに必死になり、ありとあらゆる手段を講じて実存に漸近させようとする。しかしそれはあくまでも漸近であり、一致することはない。どこまで行っても近づくだけで交わらない、空しく儚い行為である。

これら一連の行為の中で、感情は贈り物に紐づけられる。あたかもその贈り物が、そのとき感情が存在したことの証であるかのように。

そして送り主は、そのモノの存在を何度も確認し、安堵する。あの時の私の気持ちは、相手に受け入れてもらえることができた。そして今も相手の傍にあり、私の気持ちも共にある、と。

感情とモノとの紐づけは、なにも自分対他者の関係に留まらない。自分の内側の世界だけの話でも起こりえる。

あのとき苦難を乗り越えた勲章として、今も輝くタテや賞状。自分が子供だったとき、大人になりかけていたとき、そして大人になりたてだったときの思い出の品。それら全てのモノは、そのときの感情を保存し、再生する機能を持つ。そして私たち人間は、ときに立ち止まって過去を振り返るが、その際の道しるべになるのがモノなのである。

こうしてみると、モノを捨てられないひとというのは、モノそのものよりも、きっとそこに込められた記憶や感情といった過去を捨てられない、あるいはモノを捨てることによってそれらが失われてしまうのだと勘違いしている、もしくはモノがなければ過去をたどることができないと誤解しているのだろう。

 

確かめるという行為

私たち人間はいつも確かめている。

自分はどこからきて、どこにいて、どこへいくのか。

自分の記憶は残っているか、自分の感情は受け入れられているか。

人生が続き、経験が増え、関わる人間が増えるにつれて、その確かめる対象も無限に増えていく。

しかしこの確かめる、確認するという行為は、果たして価値や正しさのある行為なのだろうか。

自分の目指す姿を再確認したり、忘れがちな日々の取り組みを確かめるような場合には、きっと価値がある行為だろう。なぜなら人間は時折振り返り、今いる場所を確認しなければ目的地へたどり着けないからだ。

しかし、記憶や感情を確認する行為に、どれほどの正しさがあるのだろう。記憶は、現在に直接影響を及ぼすことはなく、感情は、どれだけ確かめたとしても手で触れることはできない。確認することによって得られるものが安堵のみであるならば、何かを生み出す行為ではないということは言えるだろう。

そうであるならば、このような回顧の情がわいたとき、私たちはどうすればいいのだろうか。

過去を振り返り、これまでの感情を確かめる行為は、私たちの心を癒してくれる。この事実は否定しようがない。

回顧はどこへも行かない、つまりはなにかを生み出す行為ではないということを念頭に置きつつ、ただ自らを癒す行為としての時間であると受け止めた上で確かめるなら問題ないだろう。そうではなく、ただ過去を振り返ることだけに没頭し、未来を見ないような状況になることは避けなければならない。