Heavy Duty

一緒に考えましょう。

人の心に巣食うモノ

今週のお題「鬼」について書いてみましょう。

 

鬼を生み出すのは人の心

私は鬼は実存ではないと思っている。観測できたことがないからだ。

ではなぜ、これほどまでに共通言語として存在し、受け入れられているのか。昔話には登場するし、四季の催しにまでなっているこの鬼とは、いったい何なのか。

その正体は、人の心が作り出す恐怖、畏怖、畏敬、崇拝の象徴のようなものだと私は思う。

100年前にはうつ病が存在しなかったように、100年前には体罰が存在しなかったように、われわれ人間は、名前を付けることによってその存在を認識する。

神仏も妖怪も同じである。名前をつけ、逸話を創作し、血の通った存在であるかのように仕立て上げる。これは物語の役割のひとつであるともいえるし、人間の心の作用そのものであるとも言える。言語の効用としての考察をしても面白いかもしれない。

われわれ人間は思考するが、その思考は必ず言語によって行われる。つまり、言語として存在しない概念については思考することができない。

様々に存在する概念や論点は、あらゆる言語化を尽くすことで説明され、ときに固有名詞を与えられることによって定義される。シェアリングエコノミー、クラウドコンピューティング、分散型ネットワークなど、新しい言葉はどんどん生まれる。

鬼という概念は、きっとその流れの中でうまれたもののひとつなのだろう。昔から日本人は、自然や現象そのものに神が宿っていると考えていた。神道における八百万の神信仰である。

日本人は自然や現象のひとつひとつに神が宿っていると考えることで、それぞれに対して敬意を払い、自分を戒めて生きてきた。その流れの中で、道理に反した行いや不届者を処罰する存在としての鬼ができあがったのだろう。

 

現代人の心に住まう鬼

人の考えや思考や思い込みは、その人にとっての強力な土台となり、その人そのものをつくっていく。このようなものも、鬼のひとつであると私は思う。

他人を信じなければならない。他人に迷惑をかけてはいけない。

自分に正直に生きなければならない。自分を大切にしなければならない。

そのような思い込みは、ときにその人本人を救い、ときに傷つけどうしようもなく追い詰める。これら人の心に住まう鬼の中で、現代人の中に最も多く住んでいるのは、思考停止の鬼だろう。

なにか問題が起きたとき、真っ先にその責任者を追求する。

なにか自分の身に不利なことが起こったとき、真っ先に自分以外に原因を求める。

これらはこれまでの人間がとってきた典型的な対処であり対応である。何か悪いことが起こったとき、とにかくその諸悪の根源であるものを滅しなければならないという思い込みである。

しかし、本当にそうだろうか?

もちろん誤りやミスや不祥事や事故は起きないに越したことはないし、その影響度をはかって対策しておくことは管理者の責任ではある。それでも起きてしまったことについて、例えば人命がかかわっていたりすると、仕方がないで済ませられないことも多いだろう。

ただ、それらのことについて責任を追及し、きっと誰よりもそのことについての知識を有している責任者を辞任させることが、本当に問題の解決になっているのだろうか?

大切なのは、なぜそうなってしまったのか、どうすれば防げたのか、今後どうやって防いでいくのかについて、起こってしまった出来事を教訓に学ぶことなのではないだろうか。

悪いことが起こり、責任を追及し、そして責任者を追い出して終わり。それでいいのだろうか。それではまた同じことが繰り返される。思考停止も甚だしいと思うのは私だけだろうか。

起こってしまったことはある意味仕方がないのだから、責任を追及することよりも、それを次にどう活かすかを考えることの方がより生産的であるし、人間らしいと言えるのではないだろうか。

 

鬼が消える日

人間はいつまでたってもくだらないどうでもよいことについて争い続けている。神がどうとか聖地がどうとか、人権問題がどうとか経済格差がどうとか、そんなことはどうでもよい。

大切なことはただ一つ、我々はよりよく生きるためになにをすればいいのか。その一点である。

それを他の枝葉末節の論点とすり替えてさも大切な論点であるかのように取り扱うから話がややこしくなる。

人間の命を尊重すること、より良く生きていくこと、これ以上に大切な論点がどこにあるだろうか。

争いなどエネルギーの無駄である。そこに注がれたエネルギーの総量と比較して、得られる「勝者」という称号のなんと意味のないことか。勝ち負けで物事を決めている限り、その勝者はいつかは敗者になるし、いつまでたっても挑戦者が現れ続ける。

この世の中の絶対的な真義によってすべての物事が判断される、そのような非民主主義の到来に私は憧れてやまない。

勝ち負けや善悪を超えたその世界では、真の意味での平和が構築され、正しさのみが存在する(鬼のいない)楽園となるだろう。