Heavy Duty

一緒に考えましょう。

雑記をしたためる理由は「ようやく異常な仕事の忙しさが和らいできたから」

最近考えていることを言語化したいと思います。そうです雑記です。

 

死を思う

ずっと死にたいと思っている。

正確には消えたい、である。この世界で生きていると色々な苦痛にさらされる。人類はいう、すなわち「苦痛があるからこそ喜びが輝く」と。しかし僕は、そのような苦痛にさらされてまで喜びが欲しいとは思えないのである。

人間は「生まれること」そのものは選べない。もし僕が「生まれること」を選べたのなら、事前に多種多様な下調べ(人生における苦痛と喜びについて。そしてそれらが人生へ与える影響について)をした上で判断するだろうし、きっと「生まれること」は選ばなかっただろうと想像する。

そのような背景があり、僕は頻繁に死を想像する。

もし仮に、飲めばもう二度と目覚めない薬があるとして、その薬を飲む場面を想像するのだ。

そうすると立ち現れるのは、妻や親兄弟にはきちんと別れを告げておきたいなとか、仕事の引継ぎをきちんと終えておきたいな、といった割と現実的な思考である。そもそも死んだ後のことなど自分には関係ないのだから考える必要はないのだが、ここに生来の生真面目さというか融通の利かなさが現れているような気がする。

また、そのような思考とは別に、自分の中のある気持ちに気がつく。

「ああ、もったいない」である。

なにがもったいないのか? 人生においてやり残したことはないし、別にこれからやりたいこともないと自負している僕であるが、そんな僕にもまだなにか経験しておきたいものがあるというのだろうか? けれど、それが具体的になんであるかを考えても、今の僕にはわからない。

読者の皆様は、人生でやっておきたいことがあるだろうか? それらは個別具体的なものであり、ひとさまの夢を聞いてもなんの参考にもならないと叱られるであろうが、僕は純粋に、世の中の人がどんな夢を持っているのか聞いてみたいのである。

 

自分に合う社会に生きたい

地球はひとつだ。その地球の中には、ひとつの社会(資本主義・生きることが正しい・努力することが正しい・正しいことは正しい)しかない。僕たち人間は、この社会以外に生まれることができないし、別の社会へ移動することもできない。

僕は、他人とかかわるくらいなら死にたいと思っているし、死ぬことを選べるべきだとも思っているし、働かなければ生きていけないのはおかしいと思っているし、働くくらいなら死にたいと思っている。

しかし、これを実行することはできない。なぜならこの社会では、これらの考えは「悪」であるからだ。正しいことが正しい社会では、悪を行うことができない。それが例え、他人に迷惑をかけない悪だとしても、全ての悪は批判され、糾弾され、排斥され、居場所がない。

どうして人間は、生き続けることをやめてはいけないのだろう。

どうして人間には、ひとつの価値観、ひとつの社会しか選択肢がないのだろう。

 

忙しさと精神状態

いつなんどきも「タスク」が頭の片隅にあり、その「タスク」を片づけるべく取り組んでいる間にも次なる「タスク」が発生し、「タスク」をひとつ終えると2つ増えるような状況が続いていた。

それが最近、ようやく落ち着きつつある。

このように異常な忙しさというか異常な「タスク」の量を抱えることになった原因はひとつである。同僚が辞めたからだ。いや、同僚が辞めたのち、本来なら空いた穴を埋めるべく人員を増やすところ、それができず同僚が担っていた仕事がほぼ僕が担うこととなったからである。

そんな異常な状態も落ち着き、少しずつ精神的な安定を取り戻しつつある今の僕であるが、振り返って思うことは「タスク量と精神状態の間には明らかな相関がある」ということである。睡眠中以外は(場合によっては睡眠の最中でさえ)タスクのことで頭がいっぱいになるという状況は、明らかに精神状態を悪化させる。

しかし……と僕は思う。仕事というのは、それはもちろん1年365日一定量であることが理想ではあるけれど、やはり繁忙期や閑散期はあるし、突発的な作業も発生しがちである。仕方ないという言葉で完全に割り切ってしまうにはあまりにもQOLへの影響が甚大ではあるが、仕方がない面がないとは言えないだろう。

これが嫌ならずっと仕事量が一定の職に就くほかないが、そのような職の特徴として単調作業になりがちであり、単調作業は時間をお金に換えるような内容のものであることが多く、つまりは賃金が低いことが多い。

ここでまた、働かなければ生きていけないという問題が再燃する。

はあ……この世のなんとままならないことか。