Heavy Duty

一緒に考えましょう。

良い話と悪い話が、ある。

良い話と悪い話がある。

良い話から聞きたい? それは「悪い話がない」だ。

 

この世の中のあらゆるものは相対的である。その最たる例が「良い悪い」の概念だ。

良いという考え方も、悪いという考え方も、必然的になにかと比べたときの状態を示すものである。

これは良い机だという言葉は、必然的に悪い机の存在を規定している。これは悪い本だという言葉は、良い本の存在を前提としている。

「良い机」そのものがあるわけでも、「悪い本」そのものがあるわけでもない。世の中に存在するのはあくまでも「机」であり「本」であり、それを五感で認識する私たち人間だ。

手で触れ、匂いをかいだその机は、あなたにとって良いものでも、他人にとっては悪いものであるかもしれない。耳で聴き、目で読んだその本は、あなたにとっては駄作でも、他人にとっては人生を変える本かもしれない。

このような「状態」なり「評価」といった要素は、どこまで行っても相対的なものであり、実体がない。雲をつかむような話という表現があるが、これらは雲どころか存在自体がない。

 

同じく実体のないもののひとつに感情がある。

私は、この感情というものが、いったい何なのかということがわからない。

なにしろ物心ついたころから慣れ親しんでいるものだし、私の行動原理のひとつでもあるし、そもそも私そのものであるともいえるからだ。

感情とは、なんなのか。

思うに、喜びや楽しみは、きっと身体にとって望ましい状況にあるときにあらわれるもので、怒りや悲しみは、きっと身体にとって望ましくない状況にあるときにあらわれるものなのではないだろうか。

無機物有機物限らず、世の中のありとあらゆる存在は、その中にそれぞれの「合理性」を宿していると思う。特に生命は、その内包する合理性が強固であればあるほど、その種を存続させる能力に長けていると思うのだ。

中でも人間は、これほど反映しているのだから霊長と言って差し支えないだろう。その人間の特徴としてあるのが、感情である。

人間がこれだけ反映している以上、そこに内包される「感情」という仕組みもきっとなんらかの「合理性」があるに違いない。

感情は理性と比較されがちであるが、理性はそもそも論理を基にするので、合理性に直結している。一方、感情は理性と対比されるだけあって合理性を持つという説明がしにくい。

感情の存在そのものについて合理性が説明しにくいのであるなら、その作用について考えてみてはどうだろう……という思考の先に行きつくのが、望ましい/望ましくない状況に対する反応であるという考え方なのである。

どなたか感情について論点整理してある本、あるいは深い洞察を学べるような本をご存じないだろうか。良ければご紹介いただきたいものである。

 

感情といえばFOMOという概念をご存じだろうか。単純な喜怒哀楽と比べると非常に複雑な概念である。

いわく、取り残される不安、というものである。

SNSによって遠くの他人は近くの他人になり、それぞれの生活をより近く感じられるようになった。フォローしている人の生活は投稿によって可視化され、YouTubePodcastなどによって配信もされ、会ったこともないのに友達であるかのような親近感を抱くことができるまでになった。

ただ、このSNSとは上手に距離を取らなければ、つまりあまりにも接近しすぎると、全ての人間が自分に関係のある人間であるかの如く錯覚してしまい、SNSそのものが自らのコミュニティと化してしまう。

そうなってしまうと遠い他者と近い他者との区別がつかなくなってしまい、本来は自分にとって遠い人間に対しても共有をしようとする方向性が生まれる。

あの人がこれをしていたから、私もやってみよう。あの人がこういうから、わたしもそうしよう。

このように他者に接近しすぎてしまうと、他者と五感を共有することが本人にとって大切なことになってしまい、それができなくなることに不安を感じるようになる。

具体的には、自分が知らない情報を目にしたり、盛り上がっているコミュニティに参加できなかったり。そのような場面で、自分だけが取り残されたかのような錯覚をする。これがFOMOである。

人間は社会的な生き物であるから、そもそもひとりの力だけで生き抜くことはできない。家族と支えあい、隣人と助け合って生きていくことで種を存続させてきた。

しかしこれが行き過ぎると、本来なら自分の人生に全く関係ない存在に対しても隣人だと錯覚してしまう。その方向性は非常に危険であり、行き過ぎると自分を見失ってしまいかねない。

ただ注意しなければならないのが、このSNS自体は善でも悪でもないということである。SNSは存在しているだけだ。物質の集合にすぎない。

これら物質をどのように活用し、自身の命に取り入れていくのかが生きることの醍醐味である。

そういえばこの醍醐味という言葉も、慣れ親しんでいるが実体がない。実体がないどころか、正体すらわからないのだから言葉というのは面白い。