Heavy Duty

一緒に考えましょう。

選択肢の多さに飛びつくな

生きるということは選択するということだと言っても過言ではありません。

 

奪う側と奪われる側

道を歩けばのべつ幕なしに目に入るものがある。広告である。

店舗の看板、イベントのポスター、自動販売機などなど。

店の中に入っても同様で、あらゆる商品のあらゆるポップが並べ立てられていて、もはや購買者が何を望んでいるかは関係なく煽ってくる。

広告というのは、当たり前だが金がかかる。テレビCMを見てよさげな洗剤を購入する人は、その広告費を負担しているし、無料の花火大会に参加している人も、その企業の広告費を負担している。

現代では、メディアに触れること=広告に触れることであるので、そもそもメディアに触れること自体が、広告というスキームを肯定することに他ならない。

だがこの広告、真義に照らし合わせて考えてみたときに、果たして肯定される存在だろうか。

モノやサービスというものは、そもそも必要であれば残るし、不要であれば残らない。これは真理だろう。

けれども、これを余計な費用を使って(広告を打って)無理やり知名度を上げたり必要性をすり込んだりして、大衆に買わせるやり方というのは、本当に正しいのだろうか。

そして、その余計な費用は企業が負担するわけではなく、購買者が負担するのである。

実質的にそのモノやサービスのコストを支払っているのは購買者であり、提供者はその利益を吸い上げて我がものにしていくという構図。

これは明らかに、企業が奪う側であり、購買者は奪われる側になってしまっている。本人の自覚の有無にかかわらず。

 

可処分所得と可処分時間

私たちは日々奪われ続けている。

広告によって刷り込まれた購買意欲によって可処分所得を奪われ、ありとあらゆるマーケティングによって目の前に現れるコンテンツによって可処分時間を奪われる。

これら奪われ続けた後に残るものは何か。搾りカスである。

大資本は、インフルエンサーは、大衆から可処分所得と可処分時間を奪い続け、利益を自分たちのものだけにしている。

大衆は全てを奪われ、もはや価値を生み出せるリソースは残っていない。

残っているのは刷り込まれた欲求だけ。その欲求を満たすためにまた可処分所得と可処分時間を確保し、そしてまた奪われる。

この構図はいつになったら解消されるのだろう。

本当の意味で正しい意義、真義はいつになったら力を持つのだろう。

 

選ぶということは選ばないということ

目の前に分かれ道があるとしよう。ひとつは田舎へ続く道、ひとつは都会へ続く道である。

どちらか一方に決めるとき、当然ながらもう一方の道に進むことはできなくなる。

この選択が、人生のあらゆる場面で現れる。

就職するのか、自分で稼ぐのか。結婚するのか、否か。これらの選択は多くの場合不可逆的で、1度選んだら最後、どんなに後悔したとしてもやり直すことはできない。

私たちは毎日、毎時間、毎分選び続けている。

可処分所得を奪われる側に立つのか、否か。

可処分時間を奪われる側に立つのか、否か。

奪われる側に立つことを選べば、もはやその立場での人生しかない。

そしてその選択が正しかったのかどうかは、振り返って判断することしかできない。

ただ、選択の良し悪しは結果を見て判断してはいけない。過去の選択を良かったと肯定できる行動を、今取らなければならない。

私は奪われ続けてきた。ふりかえって思うことは、この奪われていたことに気が付くことができて良かったということだ。

そして今取るべき行動は、私の全てを奪おうとしてくるあらゆる外乱に対して背を向け、自分の中の価値を高めていくことである。

 

選択肢の多さ=豊かさという論点

選択肢が多いということは、豊かであるという考え方がある。

どの学校に進むのか選べるということは、それだけ能力に余裕があるということ。

働き方を選べるということは、それだけ能力に余裕があるということ。

これは確かに、そうだろう。豊かでない=リソースの少ない人にとっては、そもそも選べる選択肢すらない場合が多い。

けれどもこれは、自身の可処分所得と可処分時間を増やす方向性の選択をするときにのみ、適用できる論点であると思う。

どの洗剤を買うか選べることは、別に豊かなことではない。

どのコンテンツを消費するか選べることは、別に豊かなことではない。

あふれるモノやサービスの中からどれかひとつを選ぶということは、そもそも大前提として、可処分所得や可処分時間を奪われるという選択をしている。

それはもはや、選択肢と呼べるようなものではない。飼われた家畜が手前の草を食べるか奥の草を食べるかという違いでしかない。

飼われる側の家畜として生きるのか、あるいは世の中に対して価値を提供し続ける側として生きるのか、私たちは常に問われている。

今からやろうとしているその行動は、選択は、果たして自分にとって、世界にとって価値のあることだろうか。

真の意味での価値のあることだろうか。私は私に問いかけ続けようと思う。

生活保護は甘えではない

生活保護。この制度が現実味を帯びて選択肢に入る人も少なくないと思います。

この制度は、どうしようもない状況に陥ったときでも、人として生活をしていくために援助を受けるものです。

 

生活保護は甘えか?

生活保護という制度は、立派な国の制度である。

これは日本国憲法に基づいて、人が人としての最低限度の生活をできるよう、援助するものだ。

日本では自分の力で生活してください、という考え方が根底にある。これは大前提だ。

しかし、自分の力だけではどうしようもない状況に陥ってしまうこともある。

病気で働けない、災害で怪我をしてしまった、身体が五体満足でないなど、そうなる理由はいくらでもある。

そのようなことになったとき、生きるためにはお金が必要であるのだが、そのお金がないという理由で自殺するようなことがないように。最後の砦としてこの生活保護制度がある。

前述のように、まずは自分の力で生きるということが大前提であるから、売却できる財産があったり、そもそも働けたり、他の制度で給付や補助を受けることができたり、誰か親族を頼ることができるなら、まずはそこからやってみなければならない。

これらのあらゆる手を尽くしてもなお、どうしても自分の力だけでは生きていけないという場合に、生活保護を受けることになる。

人間は基本的に、尊厳がある。私はこの尊厳の力を信じていて、どんな人でも、人としてやるべきことをやろうというマインドを持っていると思う。

だからこそ私は、生活保護が甘えであるとは思わない。

自分で手を尽くして。できる限りの努力をして。そうしてでもどうしようもないとき、昔の人はもう死ぬしかなかった。

しかし、そうして人として生きることをやめない人間であるなら、この社会では人権が保障されている。

いのちは、そのような理由で失われていいものではないからだ。

 

少数派に対する非寛容が当事者を追い詰める

この現代においても、生活保護が甘えであるという考え方は根強い。

日本人はもともと生真面目な気質だからか、余計にそのような思い込みが強いのかもしれない。

確かに、自分のことは自分ですべきであるし、自分の周りの人が困っていたら助けるべきである。が、自分ではどうしようもないときや、自分の生活で手一杯で周りの世話をする余裕がないときは、仕方がないと思う。

そして「生活保護=甘え」という非寛容な考え方は、実際に生活保護を受給している人の精神を追い詰めてしまう。

生活保護を受給している人は、具体的には毎月決められた保護費を受け取る。

この保護費も無限に受け取れるわけではなく、きちんとした基準にのっとって計算されている。

例えば持ち家がある人はその分減るし、車がある人(車がなければ生活できないような地域に限るが)はその分減る。

この受け取ったお金を使い、毎月暮らしていくことになる。

日々の食事や、衣食住の支払いをするたびに、財布の中からお金を支払う。

このお金が、他人様から恵んでもらったお金であるというマインド(これは本人の認識もあるが、社会的な非寛容さからくる認識である)は、どうしようもなくその人を傷つける。

自尊心が削られ、自分は何もできないお荷物であるという認識になり、将来への希望を持つこともできず、次第に生きる気力すら失っていく。

生活保護を受け取っている人の自殺率が高いのは、このような社会的な非寛容からくる自己肯定感の喪失が原因のひとつであると思う。

 

手を差し伸べる必要はない、ただ受け止める

あなたの周りに生活保護を受け取っている人はいるだろうか。

いてもいなくても、まずは生活保護に対する自分の認識を見直してみてほしい。

LGBTは最近になってかなり受け入れられるようになった。これは社会が多様性を許容できることの証明である。

そうであるならば、生活保護を受け取っている人についても、受け入れることができるだろう。

人間の人間としての価値は、生活保護を受け取っているかどうかで決まるわけではない。

ただ、それぞれに生活があるのは当たり前だし、人によっては余裕のない状況、ギリギリの状況で暮らしている人もいるかもしれない。

そんな人までが、社会的弱者へ手を差し伸べるべきだとは思わない。まずは自分のことを自分ですることが肝要である。

なにか物質的な援助をすることだけが、誰かの助けになるわけではない。

人間は、自分が受け入れられていると思えることで、自分を受け入れることができる。

お金を渡せとは言わない、食事を恵んでやれとも言わない。そうではない。あなたの態度として常日頃から現れるちょっとしたことが、誰かの心を救うことがあるかもしれない。

 

個人主義をはき違えてはいけない

現代は個人主義の時代である。

自分のことは自分でやれ。当たり前のことを当たり前にしろ。人のことは放っておけ。

これら基本的なマインドのもとで、しかし私たちは、自分の気に入らないことを様々に簡単に批判する。

生活保護はなくせ、政府は役に立たない、あんな芸能人はやめさせろ。

確かに人間は、なにを言っても自由だ。

しかし、生活保護はきちんとした国の制度なのだから存在しているし、政府は目に見えない(見ようとしない)あらゆる仕事をしているし、そもそも有名な芸能人のことなどテレビの前にいる人には関係がない。

これら論理が破綻した主張をすることが、果たして人間であると言えるだろうか。

人間であることをやめてしまっては、個人主義以前の問題だと思うのは、私だけなのだろうか。

 

今あるものを大切にするという方向性

税理士試験の勉強を続けています。

おおよそ税理士試験とは関係のないタイトルに見えますが、読み進めていくと関連が見えてくるのではないでしょうか。

 

やってることの振り返り

勉強しているとはいっても、その具体的な手法や取り組みはいくつかある。

①記録をつける。基本的に月~木曜日は4時間、金曜日は小休止、土日は8時間という目標で進めている。方眼ノートに4時間の日は箱を4つ、8時間の日は箱を8つ用意し、箱の中に日付を書いてから始める。1時間勉強できたら、ひとつ箱を塗ってよろしい。こうすることで箱を塗ろうという意識が働く。

ただ、できなかった箱はそのまま置いておく。からの箱から埋めようとすると、どうしても目標と実績の乖離が進んでしまい、嫌になってしまう。だからこそ埋められなかったら放置。逆に、多く勉強できた日は欄外にストックをつくっておく。どうしても進められなかった日はこのストックを使ってよろしい。言うまでもなくこちらの手法の真似である。

②音読をする。法人税法の理論サブノートは1~18のチャプターがある。おおむね1~5、6~10、11~14,15~18の4区分にすればそれぞれ1時間強で音読できる。これを1日の勉強時間の中に組み込む。やりやすいのは朝、あえて窓を開けてその横で音読することである。寒いが、目が覚める。そして酸欠にもなりにくい。長時間連続で音読していると、意外にも息が切れてくるのである。

月~木で1回転、土日でさらに1回転。頻繁に理論に触れることで忘れ止めになる。

③理論暗記をする。これが全く進まない。はかどらない。1歩すすんでは2歩下がるイメージである。まずは必ず1度は手で書く。ボールペンで。人間、手を動かしながら他のことを考えるのは難しい。否応なく文字に集中できる。

しかし何度も手で書くのは厳しい。手が痛くなるからだ。その解決策として、キーボードでメモ帳に打ち込む。こちらはPCを2画面で用意して、片方にワードを全画面表示、片方に理論を全画面表示にして並べ、進める。とにかくやること。それに尽きる。

計算の練習をする。過去の教材がある。が、これを1からすべてやり直すようなことはしない。極力総合問題形式のものだけに絞る。それらの問題の中でどうしてもわからないものは個別問題を解くが、これは最終手段である。とにかく多くの総合問題に触れなければ。

つまづいてしまった論点は別のノートへ書き写す。これも時間をかけてはいけない。走り書きでよい。どうせいつかは自分のものにして捨てるのだ、他人に見せるわけでもない。手段が目的化してはならない。

 

資格試験の難しい点

資格試験が難しいのは、その内容が難しいからではない。勉強をすれば、多くの論点や思考は理解できる。中には難解なものもあるのかもしれないが、それも時間をかければ理解できないことはない。基本的には人間が作った理論なのだ、同じ人間である私たちに理解できない道理はない。

ただ、理解できることと、再現できることは別である。ここが難しい。

再現できることとはつまり、理解できた論理を紙面上に己の力だけで展開できるかどうかということだ。この、己の力だけでという部分が厄介である。ここに本の参照などは含まれない。頼りになるのは自身の記憶のみ。

論理を理解できても、その論理を覚えていなければ、再現できない。再現できるほどに覚えるためには、繰り返しその論理に触れ、脳が自動的にアウトプットできるようになるまで刷り込むしかない。

この、記憶を定着させる行為こそがつらい。単調な繰り返しであるし、新たな発見もない。ただアウトプットと確認の繰り返し、時間計測の繰り返し。ここを継続できるかどうかがわかれ道である。

この、繰り返し解くことによって記憶に定着させるという行為は、今理解した論理を自分の中に刻みつけること、つまりは今ある自分の思考を固定するということである。

そして、昨日覚えた論理を再現できるか確認し、再現できればよし、無理であったならまた記憶しなおす。これは、昨日自分が持つことのできた論理を、今日もまだ持ち続けていられるだろうかと確認する行為である。

このように、勉強とは開拓する行為ではなく、今あるものを大切にするという方向性で繰り返す行為である。今あるものを大切にするというのであれば、それは必然的に継続の力、繰り返しの力を使うしかない。ここに、勉強の難しさがある。

雨の日でも風の日でも、体調が悪くても眠くても、毎日のように勉強を続けることができるか。

誰も理解してくれない。

優しい言葉をかけてくれるような人はいない。

なぜならこれは、ただただ自己完結した世界、自分の可能性を試す行為なのだから。

そして、外乱が発生したとしても、瞬時に軌道修正する。

それができれば、継続を継続することができ、めぐりめぐって次の目標へ私たちを運んでいってくれる。

今あるもの、今理解した論理を、明日以降の自分へつなげていく行為。果てなく広大で、終わりの見えない世界である。

才能という言葉で済ませる愚かさ

 

世の中には才能に恵まれた人がいます。

人によっては、それら恵まれた人をうらやみ、あるいは妬み、自身のメンタリティを健全ではない方向性へ導いてしまう人もいるでしょう。

この才能とはなんなのか、又は凡人である我々が才能という言葉にどう相対すればよいのか、考えてみたいと思います。

 

才能という言葉

言葉は記号である。

人間は他者とコミュニケーションをするうえで、とにかく自分の考えていること、感じていることを伝えなければならない。

その必要に迫られて生まれたのが言語であり、言葉である。

つまり、言葉とはある概念を単純化した記号にすぎない。そしてその記号が内包する概念について、多くの人間が共通認識として持つことによって会話が成立し、コミュニケーションが成立する。

この、才能という言葉によって記号化された概念はなにか。

大多数の文脈の中で、持って生まれたポジティブな才気や気質を指すことが多いように感じる。

しかしこの言葉は、本来はその持って生まれたものを指すものではない。生まれ持った気質や訓練によって発揮される能力、つまりはアウトプットを駆動する能力そのものを指す言葉なのである。

才能がないという言葉は、大多数の文脈では生まれ持った気質が不足している、という内容で使われる。しかし本来的には、ただその能力を持っていない、あるいはその能力を発揮するに未だ至っていないという状態を指すものでしかない。

これは、状態を表現する以外になんの意味も方向性も持たない。ただ、足りない。それだけである。

生まれ持った気質が不足しているから、他者のように到達点へたどり着くことができない、という意味ではない。

ただ不足している。それだけなのである。

 

才能がないという逃げ道

人間は思考する生き物である。

思考とは、これまでの経験や結果から、より良い結果を得るためにはどうすればよいのか試行錯誤する能力である。

人間は、この思考することによってこそ、人間になる。

失敗してしまったのなら、自分が思った通りに運ばなかったのなら、その結果をまず受け止めることから始める。

その上で、なぜそうなったのかを考えてみる。目標へ至る道筋がはっきりしていたか、目標に対して効果的な取り組みになっていたか、そしてその目標設定自体が適切だったかどうか。

自分には才能がない、できる人間とは違うんだなどと言って、これらの思考から遠ざかることは簡単だ。

しかしそれでは、ただの思考停止である。ただ逃げるだけであって、どこへも行くことができない。

人間であるならば、思考できるのであるならば、まずは結果を受け止め、目標との差分を測定し、その差分を埋めるための手段を試してみなければならない。それがどんなに小さなことであっても、目標に近づけるのなら方向性は間違っていない。

才能がないと言って逃げる行為について、精神が弱いだとか、やり遂げる能力がないとか、そのようなことを言うつもりは毛頭ない。

ただ、そのような逃げでしかない行為を繰り返したとしても、一向に目標に近づくことはない。そのことは真実だと思う。

 

他者から学ぶ

それでは、一般的に才能があるといわれる人たちは、具体的にはどのような活動をしているのだろうか?

残念ながら、それを知ることはできない。

それら目標へ至るための道筋を立てたり、具体的な取り組みを行うことは、他者から見える場所で行うはずがない。

なぜなら、他者へ見せる必要がない内省的行為に尽きるからだ。

勉強ならば、日々の学習を。スポーツであるなら、日々の鍛錬を。ビジネスであれば、日々の積み重ねを。

これら内省的な自己研鑽の行為は、ただ一人で行うものである。そのような地道な取り組みが本人の地力を作り上げ練り上げ、他の追随を許さない高みへと導く。

これを、あの人は才能があるから、などと評する行為は大変に失礼なことである。いや、正しくは正しい意味で「才能」という言葉を使うのなら間違いではないのだが。

しかし……いくら外部の人間がその本人を評したとしても、それらの評価は本人に影響を与えない。なぜなら、本人にとって価値がある評価というのは、自分が自分に下す評価であるからだ。

自分のことは、自分が一番わかっている。目指す目標も、そこへ至るための取り組みも、その取り組みを構築した思考も、全てわかっている。あとはそれらを集計して結果としてまとめ、次の取り組みを決めればよいだけなのだ。

スタートの合図は、誰かが鳴らしたものではない。自分で鳴らしたものだ。

目標は、誰かが作ったものではない。自分で見つけたものだ。

進むべき道は、誰かが作ったものではない。自分で用意し、開拓したものだ。

いつも、いつでも、高みを目指す開拓者は、たったひとりでその丘を登り続ける。もはや外側の音は聞こえない。あるのは自分の息遣いと、心臓の音だけだ。

そのような人たちから、私たちが学べることはなんなのだろう。ただ生き、ただ時間を使い、失っていく私たちは……。

そんなものは、わかるはずがない。わからないからこそ、一歩を踏み出すしかない。他の誰に指図されたわけでもない、自分だけの一歩を。

この一歩がどこへ続くかはわからない。しかし、きっといつか見えてくるだろう。

振り返っても闇しか見えない。しかし、きっといつか見渡せるようになるだろう。

すべては自分自身のスタート合図から、この一歩から始まるのだから。

キャリアコンサルタントさんとのお話。

ある縁からキャリアコンサルタントの方と面談させて頂く機会がありました。

 

説明できる自分がない

今、何をしているのですか?

なぜその仕事をしているのですか? 仕事をしてお金を稼ぐ理由はなんですか? そのお金をどう使いたいですか? その目標はお金でしか叶えることができませんか? あなたは生きてなにがしたいですか?

問われて気がつく。自分の中に、目標としたい強烈な情熱や願望が、ない。

考えてみたけれど、私は自分自身の中にあれをしたい、これをしたいというものがない。

意志薄弱というか、自分がないというか、そういう気質なのだ。

きっとこれまで、周りの人にたくさんのものを与えられて過ごしてきたから、足りないものなんてなかったのだ。

衣食住も十分に与えられ、優しい両親のもとで育ち、職場でも導いてくれる上司や受け入れてくれる同僚に恵まれていた。

このことに、気がついていなかった。

 

人間は考える葦である

有名なパスカルの言葉。

人間は自然のうちで、最も弱い一茎の葦にすぎない。だが、それは『考える葦』である。

自然の中にある人間の矮小さと、しかしその矮小なものの持つ「思考」という手段の偉大さを言い表した大変優れた一節である。

私は常々思っている。なんと人間の存在のちっぽけなことかと。自分ひとりではなにもできないのだ。

それが「思考」することによって、自分自身ができることを拡張するようになった。

仲間と協力することで、自分よりも何倍も大きい動物を倒すことができる。道具を生み出し使うことで、できなかったことをできることに変えていく。

これらの能力があったからこそ、人間はここまで繁栄した。今では70億もの数になる。

例えひとつひとつはただの葦に過ぎずとも、それが無数に集まり、そしてそれぞれ思考するのならば、これはもう無限の可能性があるだろう。

私は、そんな社会の中で生きている。生かされている。

これまで社会の中で与えられて育ってきた私が、これから先、できることはなんだろうか。

この、与えられたものを社会へ返していくこと。次の命が生きるに値すると感じられる社会をつくること。そのことの小さな一部でしかないが、私にできることはそれくらいではないだろうか。

 

きれいごとの価値

このような美辞麗句は、社会から受け入れられにくい。なぜなら胡散臭いからだ。

人間はみな自分勝手であるし、自分本位であるし、他人もそうであると思い込んでいる。

だからこそ、相手がそのようなパーソナリティなりメンタリティを持っていれば安心する。

そして、そうではないもの、きれいごとを言うような人物に対しては警戒心を持つ。なぜなら自分とは違うものだからだ。

けれども私は、現実として、もう自分の中にやりたいことがない。自分の中にやりたいことがないのならば、自分の外側に目を向けるしかない。

自分の内側にしか向けていなかった目を外側へ向けると、おぼろげながら少し世界が見えてくる。

世の中には未だに、お金で困っている人がたくさんいる。借金で首が回らなくなり、自殺する人さえいる。

命さえあればいくらでもやり直せるのに、お金がすべてなのだと思い込み、最も大切なはずの命さえもお金に換えてしまうのだ。

そうならないために、どうすればいいのか。

 

計算の価値

1+1=2である。こんな簡単な真理はない。

しかしこれが複雑になると、途端に難しく感じてしまう。過去の計算の整理であったり、現在時点の正しい状況認識であったり、将来の見通しであったり。

これらの計算を行うために必要なのはなにか。

それは能力ではない。知識である。

1+1=2がわかるのであれば、あとはそれを発展させるだけなのだ。

ただ、この知識はきちんと体系立てられて学ぶ機会が少ない。もちろん学校では教わらない。

加えて、将来の見通しをたてるには将来の収入や支出を見通さなければならない。支出の中には当然税金も含まれる。この計算に関する知識も、まだ一般的ではない。

私は幸運にも、これらの知識を得ることができた。これは自分以外の他者、環境、社会によって与えられたものだ。

私はこれを、社会へ返していくことで、恩返しがしたい。

全ての人が、自分の人生に希望を持てるように。正しい知識と正しい手法によって、正しい見通しを立てることができるように。

見通しを立てることができれば、きっと将来へ希望を持てる。借金で自殺しなければならないような思考も減るだろう。

もしかすると甘い見立てなのかもしれない。しかしこれが今の私の思う、私がしたいことのひとつだ。

 

税理士になる

人がなにかを学びたいと思うとき、必ずその道の先駆者に教えを乞う。その道で先に生きている人、すなわち先生である。

先駆者としてわかりやすいのは資格や肩書である。それが一般的であればあるほどよい。

税理士という資格は、あまり一般的ではないものの、国家資格のひとつであるという認識はあるだろう。

その税理士になることで、その道の先駆者であることを示す。そして知識を提供していく。

そうすればきっと、与えられてばかりだった私の人生も、少しはなにかを返せるものになるだろう。

現代人の移動の多さは異常

朝目が覚めてから夜ベッドに入るまで、私たちはいったいどれだけの時間を移動に費やしているのでしょうか。

 

移動時間を集計する試み

試しに自分自身の移動時間を計測してみる。今日1日の自分のスケジュールを追うことで、どの程度の時間を費やしているのかがわかるだろう。

まずは通勤である。これは自宅と職場が比較的近いため平均よりは短いだろう。往復60分というところだろうか。

そして今日は客先へ打合せのために移動した。こちらは片道50分、往復で100分にもなる。ちょっと頭が痛くなってきた。

これらを合計すると160分(!)になる。これが1か月20日出勤するとすると3,200分となり、年換算すると38,400分にもなる。分単位だとよくわからないので、時間に直すと640時間、日に直すと26日である。

これは……思った以上に時間を費やしている。あまりの多さに検算したが、間違っていない。え、本当に?

 

時間は命であるし、お金を積んでももう戻らない

今日の例は極端ではあるものの、通勤時間はほぼ毎日必ず発生しているため、少なくない時間を移動のために費やしていることになる。移動している間は、電車やバスであればなんとか他のことができるが、まあしかし、実際には電車の中で集中して勉強したりバスの中で本を読むのは至難の業である。

そうであるならば、このような移動時間はなるべく少ない方がよい。私は最近、昼休憩としてランチを食べに外出するのを極力控えるようにしている。イケハヤさんがラジオで繰り返し言っているのだが、彼はランチのために外出することを極力避けていたらしい。

それさえすれば彼のようになれるかといえば全く見当違いではあるが、しかしなにもしなければ1ミリも前進しないことも事実なので、まずはできるところから始めてみている。そうして空いた昼休みの時間は、ブログを書く時間にあてている。

これが意外とよい。職場という空間自体、もともと集中できるようになっている場所であるからか、昼休みの間でおおむね2,000字書くことができる。ちなみにだが、私はこのブログについて毎日更新かつ2,000字以上という制約を課している。

なぜ2,000字にしたのかといえば、私の好きな竜崎大輝さんのブログのうち、ある記事の文字数を数えると2,000字ない程度だったからである。これだけ素晴らしい文章を書く人がそれだけの文字数をアウトプットしているのだから、凡人である私は少なくともそれ以上書かなければ、という思考である。

話を戻すけれども、このように時間は有限であるし、少し気を抜くと無限に失われ続けるので、私たちはまず時間を取り戻す活動から始めなければならない。

 

離婚は悪なのか?

こうして竜崎大輝さんのブログを覗き、イケハヤさんのラジオを聴いている私だが、voicyには改めて確認すると数多くのコンテンツがある。イケハヤさんのように明らかに内容にコミットしているものもあれば、いわゆる垂れ流しのようなものもある。その中のひとつに、離婚は悪なのだろうかというコンテンツがあって聴いていた。

そのラジオのパーソナリティは離婚経験者なのだが、いわく、離婚して後悔しないでしょうか、というような相談が多く寄せられるため、自分自身の考えを話してみますという内容だった。

私にとって、この「後悔したくない」という感情の存在は謎めいている。人は様々な選択を重ね生きているが、その結果いかんによってはあの時こうしてよかったと肯定することもあるし、あの時ああしていればよかったと後悔することもあるという考え方である。

果たしてそうだろうか? 私はこの前提が間違っていると思っている。

結果というのは、必ずしもその選択だけがパラメータとして影響するわけではない。その他にも多くの要因によって影響を受けるし、場合によってはそこに天変地異が入り込んでくることもある。このような無数の影響要因を逐次予測し、完璧な結果を求めて、必然であるたったひとつの選択をする、というようなことができるだろうか? いや、できるはずがない。そうであるならば、結果というのは選択によって得られるものではなく、選択を含めた様々な要因が収束した到達点として得られるものであるはずだ。

過去の選択を後悔するということは、つまりは別の選択をすればよかった、私には別の選択をする能力があった、ベストの選択をするために未来を完璧に見通す神の力があったという奢りに過ぎない。

後悔なんてものは、ない。ただの哀愁だ。

私たちにできることは、結果を受け止め、その上で過去の選択を肯定することである。あるいは、過去の選択を肯定するために、よりよい選択を今行うことである。

過去の選択について評価するのは、今の自分だ。それはつまり、離婚した自分を肯定できるのは、今の自分しかいない。そして、離婚した自分を肯定するために、今の自分はどう幸せになるべきか考えなければならないのだ。

これが、私が後悔という概念を否定する理由である。そのような後ろ向きな概念は、人類にとって必要がない。

我々は既得権益をこわすためにどうすればいいのか

既得権益。どこかの誰かが持っている、その誰かの努力で掴んだものではない権利のことです。

それは先駆者の願い、つまりは後を継ぐ人が豊かであってほしいという希望の決勝ですが、現代に生きる私たちにとって、はっきり言って羨ましいしなくなってほしいもののひとつです。

 

既得権益とはなにか

1番わかりやすいのは、親の財産や社会的基盤を引き継ぐパターンである。財産というのは、なにもお金だけではない。不動産や株式など、持っているだけでお金を生んでくれるものも含まれている。不動産は賃貸収入を生み出してくれるし、株式は配当収入を生み出してくれる。また、社会的基盤というのは2代目社長がイメージしやすい。本人はなにも努力していない(と、外側からは観察される)人物が社長の子供であるという理由で会社の2代目社長になるような場合である。

これら親から引き継ぐというパターンは、一見して親ガチャの勝利者のように見えるし、本人はなにも努力していないのに利益を得ているように見える。しかし想像するに、これら2代目というのは生まれたときからそういう目で見られ続け、必然的に優秀でなければならないし、結果を出し続けなければならない。これはある意味、最初に生み出すという行為よりも難しいように思う。

社長の子供が2代目に、孫が3代目に就任した後、会社が倒産する例が多いのはこのためである。なにごとも始めるのが最も簡単であり、次に維持継続することが、最後にやめることが最も難しい。

他には業界団体が全体として利益を確保しているような場合がある。これはそれら業界全体としての努力の成果であるので、外側から文句をいう筋合いはないし、この利益を実質的に受け取る人というのも、その中でそれなりの努力をしているはずである。

こうして考えてみると、既得権益を得ている人というのは努力せずに利益を手にしているものと思いがちだが、実際にはそれぞれの努力や苦労の上で成り立っている。

しかしこの既得権益は、1度できあがるとかなり強固で、外側から崩すのが難しい。この点も外部からの揶揄や否定的意見のもととなっている。これら既得権益が存在することで、我々は利益を得ることができない、と。ただこの主張は間違っていて、レッドオーシャンを攻略しようとすることそのものが愚かであり、私たちは常にブルーオーシャンを探さなければならない。

 

変化はチャンス

時間の経過と共に、技術や社会は進歩していく。この流れの中で、ごく稀に既得権益の付近で小爆発が起こることがある。このような変化は、強力なはずの既得権益の外壁を少しだけ切り崩し、外側にいる人がその中に入り込む隙間を生み出すことがある。このようなことが起こると、今まで無関係だった人々にもチャンスが回ってくるようになり、新たな利益を生み出すことができる。

この小爆発は、テクノロジーが関与していることが多い。例えば不動産業界に仲介手数料というものがある。これは家を貸したいAさんと家を借りたいBさんがいるような場合に、不動産業者がこのマッチングを行い、AさんBさん両方からその手数料を受け取るというものだ。

この仲介手数料は、そもそも需要と供給のマッチングが個人でできなかったために発生していたものだ。ところがインターネットは個人と個人を容易に結び付け、マッチングにかかるコストをほぼゼロにしてしまった。この結果仲介手数料は取りづらくなり、ひとつの既得権益が消滅したといってもいいだろう。

このように、これまで非効率だった部分が別のテクノロジーによって効率化される、そのような場合に新たなブルーオーシャンを生み出すことができる。

 

 

あなたの周りの非効率はなんですか?

メルカリは個人間売買のマッチングを効率化した。ルンバは非効率だった手作業掃除を効率化した。Freeeなどのクラウド会計は入力作業を効率化した。YouTubeはユーザーが求めるコンテンツ提供を最適化した。

人々が面倒だと思っていること、時間がかかると思っていること、手間がかかると思っていることに、効率化の余地はある。これら非効率をどのように解決するかによって、新たなソリューションは価値を持つ。

この、非効率を効率化することに関しては、大切な能力が二つある。ひとつはアンテナを張って様々な情報を受け取る能力。もうひとつはそれらの情報を組み合わせて考える能力である。

現代では思考というものはほぼ出尽くしている。新たな発見はそうそう出てくるものではない。そのような中で、既存のものをどう組み合わせるか、どうデザインするかが、今後必要な能力の一つなのである。

眼鏡とテクノロジーを組み合わせることでなにができるだろうか。鉛筆とテクノロジーは? あるいは封筒とテクノロジーはどうだろうか?

このように情報を集めて組み合わせて問いを立て続け、いつでもどこでも「?」を持ち続けることが新たな価値を生み出すし、人間をまた一歩前進させるのえある。