Heavy Duty

一緒に考えましょう。

現代人の移動の多さは異常

朝目が覚めてから夜ベッドに入るまで、私たちはいったいどれだけの時間を移動に費やしているのでしょうか。

 

移動時間を集計する試み

試しに自分自身の移動時間を計測してみる。今日1日の自分のスケジュールを追うことで、どの程度の時間を費やしているのかがわかるだろう。

まずは通勤である。これは自宅と職場が比較的近いため平均よりは短いだろう。往復60分というところだろうか。

そして今日は客先へ打合せのために移動した。こちらは片道50分、往復で100分にもなる。ちょっと頭が痛くなってきた。

これらを合計すると160分(!)になる。これが1か月20日出勤するとすると3,200分となり、年換算すると38,400分にもなる。分単位だとよくわからないので、時間に直すと640時間、日に直すと26日である。

これは……思った以上に時間を費やしている。あまりの多さに検算したが、間違っていない。え、本当に?

 

時間は命であるし、お金を積んでももう戻らない

今日の例は極端ではあるものの、通勤時間はほぼ毎日必ず発生しているため、少なくない時間を移動のために費やしていることになる。移動している間は、電車やバスであればなんとか他のことができるが、まあしかし、実際には電車の中で集中して勉強したりバスの中で本を読むのは至難の業である。

そうであるならば、このような移動時間はなるべく少ない方がよい。私は最近、昼休憩としてランチを食べに外出するのを極力控えるようにしている。イケハヤさんがラジオで繰り返し言っているのだが、彼はランチのために外出することを極力避けていたらしい。

それさえすれば彼のようになれるかといえば全く見当違いではあるが、しかしなにもしなければ1ミリも前進しないことも事実なので、まずはできるところから始めてみている。そうして空いた昼休みの時間は、ブログを書く時間にあてている。

これが意外とよい。職場という空間自体、もともと集中できるようになっている場所であるからか、昼休みの間でおおむね2,000字書くことができる。ちなみにだが、私はこのブログについて毎日更新かつ2,000字以上という制約を課している。

なぜ2,000字にしたのかといえば、私の好きな竜崎大輝さんのブログのうち、ある記事の文字数を数えると2,000字ない程度だったからである。これだけ素晴らしい文章を書く人がそれだけの文字数をアウトプットしているのだから、凡人である私は少なくともそれ以上書かなければ、という思考である。

話を戻すけれども、このように時間は有限であるし、少し気を抜くと無限に失われ続けるので、私たちはまず時間を取り戻す活動から始めなければならない。

 

離婚は悪なのか?

こうして竜崎大輝さんのブログを覗き、イケハヤさんのラジオを聴いている私だが、voicyには改めて確認すると数多くのコンテンツがある。イケハヤさんのように明らかに内容にコミットしているものもあれば、いわゆる垂れ流しのようなものもある。その中のひとつに、離婚は悪なのだろうかというコンテンツがあって聴いていた。

そのラジオのパーソナリティは離婚経験者なのだが、いわく、離婚して後悔しないでしょうか、というような相談が多く寄せられるため、自分自身の考えを話してみますという内容だった。

私にとって、この「後悔したくない」という感情の存在は謎めいている。人は様々な選択を重ね生きているが、その結果いかんによってはあの時こうしてよかったと肯定することもあるし、あの時ああしていればよかったと後悔することもあるという考え方である。

果たしてそうだろうか? 私はこの前提が間違っていると思っている。

結果というのは、必ずしもその選択だけがパラメータとして影響するわけではない。その他にも多くの要因によって影響を受けるし、場合によってはそこに天変地異が入り込んでくることもある。このような無数の影響要因を逐次予測し、完璧な結果を求めて、必然であるたったひとつの選択をする、というようなことができるだろうか? いや、できるはずがない。そうであるならば、結果というのは選択によって得られるものではなく、選択を含めた様々な要因が収束した到達点として得られるものであるはずだ。

過去の選択を後悔するということは、つまりは別の選択をすればよかった、私には別の選択をする能力があった、ベストの選択をするために未来を完璧に見通す神の力があったという奢りに過ぎない。

後悔なんてものは、ない。ただの哀愁だ。

私たちにできることは、結果を受け止め、その上で過去の選択を肯定することである。あるいは、過去の選択を肯定するために、よりよい選択を今行うことである。

過去の選択について評価するのは、今の自分だ。それはつまり、離婚した自分を肯定できるのは、今の自分しかいない。そして、離婚した自分を肯定するために、今の自分はどう幸せになるべきか考えなければならないのだ。

これが、私が後悔という概念を否定する理由である。そのような後ろ向きな概念は、人類にとって必要がない。