Heavy Duty

一緒に考えましょう。

才能という言葉で済ませる愚かさ

 

世の中には才能に恵まれた人がいます。

人によっては、それら恵まれた人をうらやみ、あるいは妬み、自身のメンタリティを健全ではない方向性へ導いてしまう人もいるでしょう。

この才能とはなんなのか、又は凡人である我々が才能という言葉にどう相対すればよいのか、考えてみたいと思います。

 

才能という言葉

言葉は記号である。

人間は他者とコミュニケーションをするうえで、とにかく自分の考えていること、感じていることを伝えなければならない。

その必要に迫られて生まれたのが言語であり、言葉である。

つまり、言葉とはある概念を単純化した記号にすぎない。そしてその記号が内包する概念について、多くの人間が共通認識として持つことによって会話が成立し、コミュニケーションが成立する。

この、才能という言葉によって記号化された概念はなにか。

大多数の文脈の中で、持って生まれたポジティブな才気や気質を指すことが多いように感じる。

しかしこの言葉は、本来はその持って生まれたものを指すものではない。生まれ持った気質や訓練によって発揮される能力、つまりはアウトプットを駆動する能力そのものを指す言葉なのである。

才能がないという言葉は、大多数の文脈では生まれ持った気質が不足している、という内容で使われる。しかし本来的には、ただその能力を持っていない、あるいはその能力を発揮するに未だ至っていないという状態を指すものでしかない。

これは、状態を表現する以外になんの意味も方向性も持たない。ただ、足りない。それだけである。

生まれ持った気質が不足しているから、他者のように到達点へたどり着くことができない、という意味ではない。

ただ不足している。それだけなのである。

 

才能がないという逃げ道

人間は思考する生き物である。

思考とは、これまでの経験や結果から、より良い結果を得るためにはどうすればよいのか試行錯誤する能力である。

人間は、この思考することによってこそ、人間になる。

失敗してしまったのなら、自分が思った通りに運ばなかったのなら、その結果をまず受け止めることから始める。

その上で、なぜそうなったのかを考えてみる。目標へ至る道筋がはっきりしていたか、目標に対して効果的な取り組みになっていたか、そしてその目標設定自体が適切だったかどうか。

自分には才能がない、できる人間とは違うんだなどと言って、これらの思考から遠ざかることは簡単だ。

しかしそれでは、ただの思考停止である。ただ逃げるだけであって、どこへも行くことができない。

人間であるならば、思考できるのであるならば、まずは結果を受け止め、目標との差分を測定し、その差分を埋めるための手段を試してみなければならない。それがどんなに小さなことであっても、目標に近づけるのなら方向性は間違っていない。

才能がないと言って逃げる行為について、精神が弱いだとか、やり遂げる能力がないとか、そのようなことを言うつもりは毛頭ない。

ただ、そのような逃げでしかない行為を繰り返したとしても、一向に目標に近づくことはない。そのことは真実だと思う。

 

他者から学ぶ

それでは、一般的に才能があるといわれる人たちは、具体的にはどのような活動をしているのだろうか?

残念ながら、それを知ることはできない。

それら目標へ至るための道筋を立てたり、具体的な取り組みを行うことは、他者から見える場所で行うはずがない。

なぜなら、他者へ見せる必要がない内省的行為に尽きるからだ。

勉強ならば、日々の学習を。スポーツであるなら、日々の鍛錬を。ビジネスであれば、日々の積み重ねを。

これら内省的な自己研鑽の行為は、ただ一人で行うものである。そのような地道な取り組みが本人の地力を作り上げ練り上げ、他の追随を許さない高みへと導く。

これを、あの人は才能があるから、などと評する行為は大変に失礼なことである。いや、正しくは正しい意味で「才能」という言葉を使うのなら間違いではないのだが。

しかし……いくら外部の人間がその本人を評したとしても、それらの評価は本人に影響を与えない。なぜなら、本人にとって価値がある評価というのは、自分が自分に下す評価であるからだ。

自分のことは、自分が一番わかっている。目指す目標も、そこへ至るための取り組みも、その取り組みを構築した思考も、全てわかっている。あとはそれらを集計して結果としてまとめ、次の取り組みを決めればよいだけなのだ。

スタートの合図は、誰かが鳴らしたものではない。自分で鳴らしたものだ。

目標は、誰かが作ったものではない。自分で見つけたものだ。

進むべき道は、誰かが作ったものではない。自分で用意し、開拓したものだ。

いつも、いつでも、高みを目指す開拓者は、たったひとりでその丘を登り続ける。もはや外側の音は聞こえない。あるのは自分の息遣いと、心臓の音だけだ。

そのような人たちから、私たちが学べることはなんなのだろう。ただ生き、ただ時間を使い、失っていく私たちは……。

そんなものは、わかるはずがない。わからないからこそ、一歩を踏み出すしかない。他の誰に指図されたわけでもない、自分だけの一歩を。

この一歩がどこへ続くかはわからない。しかし、きっといつか見えてくるだろう。

振り返っても闇しか見えない。しかし、きっといつか見渡せるようになるだろう。

すべては自分自身のスタート合図から、この一歩から始まるのだから。