選択肢の多さに飛びつくな
生きるということは選択するということだと言っても過言ではありません。
奪う側と奪われる側
道を歩けばのべつ幕なしに目に入るものがある。広告である。
店舗の看板、イベントのポスター、自動販売機などなど。
店の中に入っても同様で、あらゆる商品のあらゆるポップが並べ立てられていて、もはや購買者が何を望んでいるかは関係なく煽ってくる。
広告というのは、当たり前だが金がかかる。テレビCMを見てよさげな洗剤を購入する人は、その広告費を負担しているし、無料の花火大会に参加している人も、その企業の広告費を負担している。
現代では、メディアに触れること=広告に触れることであるので、そもそもメディアに触れること自体が、広告というスキームを肯定することに他ならない。
だがこの広告、真義に照らし合わせて考えてみたときに、果たして肯定される存在だろうか。
モノやサービスというものは、そもそも必要であれば残るし、不要であれば残らない。これは真理だろう。
けれども、これを余計な費用を使って(広告を打って)無理やり知名度を上げたり必要性をすり込んだりして、大衆に買わせるやり方というのは、本当に正しいのだろうか。
そして、その余計な費用は企業が負担するわけではなく、購買者が負担するのである。
実質的にそのモノやサービスのコストを支払っているのは購買者であり、提供者はその利益を吸い上げて我がものにしていくという構図。
これは明らかに、企業が奪う側であり、購買者は奪われる側になってしまっている。本人の自覚の有無にかかわらず。
可処分所得と可処分時間
私たちは日々奪われ続けている。
広告によって刷り込まれた購買意欲によって可処分所得を奪われ、ありとあらゆるマーケティングによって目の前に現れるコンテンツによって可処分時間を奪われる。
これら奪われ続けた後に残るものは何か。搾りカスである。
大資本は、インフルエンサーは、大衆から可処分所得と可処分時間を奪い続け、利益を自分たちのものだけにしている。
大衆は全てを奪われ、もはや価値を生み出せるリソースは残っていない。
残っているのは刷り込まれた欲求だけ。その欲求を満たすためにまた可処分所得と可処分時間を確保し、そしてまた奪われる。
この構図はいつになったら解消されるのだろう。
本当の意味で正しい意義、真義はいつになったら力を持つのだろう。
選ぶということは選ばないということ
目の前に分かれ道があるとしよう。ひとつは田舎へ続く道、ひとつは都会へ続く道である。
どちらか一方に決めるとき、当然ながらもう一方の道に進むことはできなくなる。
この選択が、人生のあらゆる場面で現れる。
就職するのか、自分で稼ぐのか。結婚するのか、否か。これらの選択は多くの場合不可逆的で、1度選んだら最後、どんなに後悔したとしてもやり直すことはできない。
私たちは毎日、毎時間、毎分選び続けている。
可処分所得を奪われる側に立つのか、否か。
可処分時間を奪われる側に立つのか、否か。
奪われる側に立つことを選べば、もはやその立場での人生しかない。
そしてその選択が正しかったのかどうかは、振り返って判断することしかできない。
ただ、選択の良し悪しは結果を見て判断してはいけない。過去の選択を良かったと肯定できる行動を、今取らなければならない。
私は奪われ続けてきた。ふりかえって思うことは、この奪われていたことに気が付くことができて良かったということだ。
そして今取るべき行動は、私の全てを奪おうとしてくるあらゆる外乱に対して背を向け、自分の中の価値を高めていくことである。
選択肢の多さ=豊かさという論点
選択肢が多いということは、豊かであるという考え方がある。
どの学校に進むのか選べるということは、それだけ能力に余裕があるということ。
働き方を選べるということは、それだけ能力に余裕があるということ。
これは確かに、そうだろう。豊かでない=リソースの少ない人にとっては、そもそも選べる選択肢すらない場合が多い。
けれどもこれは、自身の可処分所得と可処分時間を増やす方向性の選択をするときにのみ、適用できる論点であると思う。
どの洗剤を買うか選べることは、別に豊かなことではない。
どのコンテンツを消費するか選べることは、別に豊かなことではない。
あふれるモノやサービスの中からどれかひとつを選ぶということは、そもそも大前提として、可処分所得や可処分時間を奪われるという選択をしている。
それはもはや、選択肢と呼べるようなものではない。飼われた家畜が手前の草を食べるか奥の草を食べるかという違いでしかない。
飼われる側の家畜として生きるのか、あるいは世の中に対して価値を提供し続ける側として生きるのか、私たちは常に問われている。
今からやろうとしているその行動は、選択は、果たして自分にとって、世界にとって価値のあることだろうか。
真の意味での価値のあることだろうか。私は私に問いかけ続けようと思う。