Heavy Duty

一緒に考えましょう。

人の心を傷つけるものと、人の心を救うもの。

私たち人間は、誰ともかかわらずに生きていくことができません。必ず誰かと関わって生きていくことになります。

そのような社会の中ですれ違う多くの人々。その人々とのやり取りの中で私たちの心は消耗し、そして癒しを求めてさまようのです。

 

人の心を傷つけるもの

誰かに否定された、誰かに罵倒された、誰かに悪口を言われた、誰かに嫌われたなどなど。生きていると自分の心が傷つく出来事がいくらでも起こる。

そのようなことのひとつひとつを挙げればきりがないが、とにかく私たち人間が生きていくということは傷つくということと同義である。

では、人の心を傷つけるものとは、一体なんなのか。

悪意だろうか。

非寛容的な精神だろうか。

邪悪な思考だろうか。

これらはいずれも人の心を傷つける。信じがたいことだが他人の心を傷つけることを目的に行動する人間すらいる。

これら人の心を傷つけるのは、同じく人の心である。

同族や同じ存在というものは、基本的にはそれら個体が集まって群体としての生存本能を持つ。

草食動物が群れで行動するのは、群れという全体を維持するために個という一部分を切り捨てることもやむなし、という論理からである。そうすることによって全体を維持し、同族の群体としての存在を守る。

ただ、人間の場合はそうではない。

社会という群体を構成していて、表面上は皆で仲良くやろうという方向性が構築されているものの、その実個体単位では争いが尽きず、ある一定規模の個体の集まり(国家、宗教、人種など)単位でも争い続けている。

このように、人間だけはなぜか群れというものを維持しようとしない。それどころか、他者を否定し積極的に分断しようとする動きさえある。社会の中で生きることはすなわち攻撃されることであり、傷つけられることであり、消耗していくことなのである。

 

人の心を救うもの

傷ついた心について、私たちはどのように癒していけばいいのだろうか。

答えは自明である。

人の心を傷つけるのが人の心ならば、人の心を救うのもまた人の心なのである。

誰かに傷つけられたり、困って消耗しているような人を見かけると、私たち人間は本能的にかわいそうと思う。このかわいそうという感情は、傷ついた人に手を差し伸べ、消耗している人を助けるだけの原動力になる。

親から教えられたからだろうか、困っている人を見かけたら力になりなさい、と。そのように行動する人を見てきたからだろうか。それとも元々備わっている人間本来の機能なのだろうか。

どこからともなく現れるこの感情について、私は、本当はどこからくるのかを知りたい。その正体が何なのかを知りたい。

同じ人の心でも、変容すれば他者を傷つけ、あるいは他者を救うこともある。同じものであるはずなのに、全く逆の作用を持つ。

なぜこのようなことが起こるのか。なぜこのようなことが起こることができるのか。人の心の持つ能力や効果は計り知れない。

 

人間嫌いの構造

このように人の心は容易に変容してしまう。当人にとっては自然な作用でこのような形になったと思いがちであるが、それにはなんらかの原因なり理由があるはずである。

現代は個人主義が力を持ち、自分の好きなことをして生きていこう、自分が嫌いな人間と仲良くする必要はない、という風潮が主流である。

しかし、これら嫌われる側の人間の心理とはどういうものなのだろうか。自分の利になることのみを主張し、他者を否定し傷つけることも辞さない、その姿勢の奥底にある根本的な論理なり欲求とはなんなのだろうか。

それは思うに、人間という存在に対しての悪感情だと私は思う。いわゆる人間嫌いである。

では人間嫌いという性向はどのような要素によって組み立てられるのか。それは過去の体験であり、経験であり、記憶であると思う。

誰かに罵倒され傷つけられ、裏切られ否定され、自分の心をズタズタに切り刻まれたようなとき、その心はもう二度とこんな思いをしたくないと拒む。

拒絶は最強の動機である。もう関わりたくない、もうこんな思いをしたくない。自分の心を守るためなら、どんなものも拒絶する。そのためならどんな攻撃でもする。

そうしてできあがる強固な核は、人間の行動の原動力になり得る。

しかし、と私は思うのだ。しかしこれは、生きていると言えるのだろうかと。

生きることとは考えることである。現状について考え、あるべき姿について考え、その差分について考え、その差分を埋める方法やその具体的な実行計画について考え、そして実行した結果について考え、また差分を考える。こうして考え続けた先に自らを変革し続け、なりたい自分へ漸近していくことこそが生きることだと私は思う。

他者を拒絶するということは、すなわち他者とかかわることで起きる変化を否定するということである。私たち人間は社会で生きる以上、他者とかかわることを避けることができない。これは真義である。

そうであるならばやはり、他者とかかわることは受け入れざるを得ないし、人間嫌いなどと言ってすべての人間関係を完全に遮断することもできない。

ただ、人間が嫌いであるという性向自体は否定する必要はないし、自分というものの一部であるなら受け入れて良いと思う。

大切なのは自分を受け入れ自分と向き合い、それでも生きることを諦めず、なんとか社会と折り合いをつけていく姿勢をもつことだと思う。

その姿勢さえあれば、もしかすると人間嫌いも癒される日が来るかもしれない。と、私は人間嫌いである私自身の心を癒すべく、こうして語りかけているのである。