Heavy Duty

一緒に考えましょう。

のるかそるか

国会議員ってなにを考えているんでしょうか。

 

政治と金

国会議員というのは、その立場上、有権者から支持を得なければならない。というよりも、有権者から支持を得られるからこそ国会議員なのである。

この国会議員であるが、なぜか知らないが不祥事が後を絶たない。それも賄賂が多い。多すぎる。

この賄賂、比較的発展途上で民度の低い国家で横行しているのならわかる。しかし日本は衰えつつあるとはいえ、先進国の末席に名を連ねている。

それでもなお、この政治の世界が金というキーワードから離れられないのはなぜなのだろう、と純粋に思う。

ビジネスならば、A社と組むためにB社に工作してもらい、その報酬を支払うような場面はいくらでもある。これは業務委託料や紹介料などとしてまっとうな経費であり、損金である。

しかし、これが政治の世界になっただけでおかしくなる。A氏の支持を集めるため、B氏に工作してもらい、その報酬を支払うような行為はNGとされる。これはなぜなのだろうか。

正当な対価を支払い、真っ当な手続きを経て行われるものであれば、不当行為には該当しないように思われる。

しかし、有権者から政治家への寄附、政治家から有権者への寄附は基本的に禁止されている。いわく、きれいでクリーンな政治を行うためだそうだ。

これは……これほどまでに中身のない言葉があるだろうか。

きれい?

クリーン?

なんと定性的な言葉か。

 

民主主義の建前

我々国民は、成人すれば選挙権を与えられる。これは有権者の代弁者たる議員を選ぶことで間接的に政治に参加し、我々の権利を守ることの約束であるとされる。

民主主義とは当事者の合議による決定により、様々なことを決定していく手法のことであるが、当然ながらひとりひとりの意見をきいていたのではきりがない。そこで、これら民衆の意見の代弁者たる議員(=民衆の代表)を少数選び、それら議員による合議を民衆の合議であるとみなして、意思決定を行っていく。

この仕組みには国民であれば誰でも政治に参加してよい、あるいはみんなで決めたことは正しいという明らかな誤りがある。ただ、この仕組みにはメリットもあり、国民から不満が出にくいということである。

そうして出来上がる民主主義の仕組みは、当然ながら有権者ひとりひとりは平等であるので、有権者ひとりあたりの政治に対する影響力を均質化しなければならない。田舎のおばあちゃんが言う言葉も、お国を背負う大企業の社長が言う言葉も、等しくなければならないのだ。これが民主主義の建前である。

このような建前があるからこそ、影響力を金で買える人物がそうすることを禁止し、影響力で金を儲けられる人物がそうすることを禁止しているのである。

しかし、この、田舎のおばあちゃんと大企業の社長の言葉について、あなたは平等だと思うだろうか。私はそうは思わない。

もしかすると、大企業の社長なら自分の企業だけが有利になるような政策を求めるはずだという意見もあるかもしれない。しかし、本当にそうだろうか?

この、どんな情報でも大衆の目にさらされる社会において、自社の利益だけを求めるような行動をした場合、どうなるのかは火を見るより明らかではないだろうか。そのような行動をしたら最後、SNSで徹底的に攻撃され、それは社会の大きなうねりとなり、そしてその会社を滅ぼすだろう。

大企業の社長が、そのようなことをわからないはずがない。そうであるならば、その経験と知識を活かした提案なり政策なりを求め、あるいは立案して、田舎のおばあちゃんを含めたより大きな単位を幸せにできる方向性に進むのではないだろうか。

チェック機能がなかった昔ならいざ知らず、今はそのような時代ではない。

というかそもそも、今の代理制の民主主義を直接制に変えることも技術的には可能だろう。

 

民主主義のゆくえ、国家のゆくえ、社会のゆくえ

そろそろ民主主義の限界に気がついてもいいのではないだろうか。

今のような単一の社会では、ひとつでも誤った大きなうねり(給付金出せだの生活保護の扶養照会なくせだの的外れ甚だしい無知な意見によるうねり。このような無知な意見というのは無知な人間、つまり論理を持たず感情で判断する人間に刺さりやすく、またこのような無知な人間の方が絶対数が多くうねりを生み出しやすい)が生まれるとすぐにその方向に社会が動いてしまい、正しい論理こそが埋没してしまう。

いずれ民主主義は、今のような国家単位や社会単位ではなく、主義主張を同じくする者同士の集まりに変わっていくだろう。それは国境や民族の違いといった物理的な差異ではなく、思考の差異のみを基にしてあらゆるコミュニティが出来上がるだろう。

労働を是としないコミュニティ、男性を排斥するコミュニティ、日本文化を継承するコミュニティなどなど……それらコミュニティはそれぞれに社会や経済をもち、国家となるか国家と同等の地位を得ることになるだろう。

そしてそのコミュニティ自体も、前提に誤りがあれば自然に瓦解するであろうし、本当に価値があるのなら少しずつ規模を増大させていくだろう。

このように、今ある社会や国家の規定は国境や歴史が支配しているが、いずれ人間の思考が支配する世界に変わり、社会はひとつではなくなるのだろう。

私はそのような社会を望んでやまない。

生れ落ちたその瞬間、否応なくこの社会しか選べないような人生ではなく。