Heavy Duty

一緒に考えましょう。

固定化されたランクと思考

人間は全員、どこかで生まれてどこかで育ち、どこかで大人になって、どこかで生きていく。

生まれ育った環境は、その後の人生に大きく影響する。

金銭的に余裕があったのかどうか。

文化的なものに触れる機会のある環境だったのかどうか。

両親ともに健康だったのかどうか。

特に両親というのは、子供に圧倒的な影響を与える。

 

規範や倫理観、考え方や価値観の方向性について、もはや子供は、親のコピーであると言ってよい。

そしてこれは本人にとって、自分で学び選択したものではないということになる。

 

私は、幼少期の記憶が薄い。

最近思い至ったのだが、これは、自分で自分を選択していなかったことによる弊害なのではないか、と思う。

他人に従って自分を規定する行為は、命令を受信して実行するだけであり、つまりは自分自身の思考が伴わない。

自分で思考しないということは、いわゆる思考停止であり、それは内側にも外側にも向かわない、ただ流れるだけの時間である。

 

話を戻すが、知らず知らずのうちに刷り込まれたものは、そのままその人の人生に影響を与える。

そしてそれが顕著に表れる例が、普通思考である。

普通は、なにかを勉強するときはテキストを読み込んで進める。

普通は、失敗するリスクがあるものには手を出さない。

普通は、勉強することに価値があるものだ。

しかしこれらは、間違いだ。

テキストを読み込んでも現場を勉強したことにはならないし、リスクをとらなければ成功できないし、価値があるのは勉強ではなく成果である。

このように刷り込まれたものが誤りである場合、その誤りは次の世代まで引き継がれる。

誤りは誤りを再生産する。

それは、人間が目指すべき方向性ではないように思う。

嫌いな人と付き合う方法なんてあるのか?

人間はいろいろである。

いろいろな人間がいる社会で生きていれば、同じ人類であるということが疑わしいほど思考が異なったり、前提が異なったりして相容れない人間に出会うことがある。

不幸なことに、その人間との付き合いが不可避であることも、ある。

そんなとき、僕たちはどうすればいいのだろうか。嫌いな人と付き合う方法なんてあるのだろうか。そんな疑問が尽きないので、少し考えてみることにする。

 

 

1.生理的に無理

よく聞くフレーズである。

少し分解して考えると、人間の思考はいろいろな前提(=価値観)によって形作られている。

潔癖、がさつ、他人には干渉しない、八方美人など、挙げればキリがない。そんなキリがない無限の前提は、その前提に当てはまらない人間を拒絶する。

潔癖な人は不潔な人が無理だろうし、干渉を拒絶する人は馴れ馴れしい人が無理だろう。それは前提(=価値観)を絶対的なものとして(あるいは絶対的なものであると信じて)自分を作り上げている人にとって、道理である。

それは態度として不寛容だろうか? いや、勝手にすればよい。

多様な人間がいる以上、多様な前提(=価値観)が存在することは仕方がないし、それは本人以外誰にもどうすることもできない。

 

2.あなた自身のようにあなたの隣人を愛さねばならぬ

愛することすなわち、好きになるというのは、ちょっと違うと思う。

いつくしむということは、必ずしも好きになることや受け入れることを必要としない。ただ、そこにあるものを大切に扱う。それで良い気がしている。

人と人とが関わるとき、必ず好き嫌いを持ち込むことの方が間違っている。他人のありようそのものは肯定も否定もせず、ただそこにあるものとして大切に扱う。そうすることができれば、好きだろうが嫌いだろうが関係なく、大切に扱うことができるはずである。

そもそも、好きか嫌いかなんて判断に、意味も価値も理由も目的もない。好きであるという気持ちは、好きであるというだけであるし、嫌いであるという気持ちは、嫌いであるというだけである。どこへもいかないし、なににも影響しない。自分の中の閉じた世界の中でのはなしであって、それを自分の外である社会へ行動を伴ってアウトプットすべきではない。

そして、命は命だ。男だろうが女だろうが、働いていようがいまいが、若かろうが年寄りだろうが、健常者だろうが障がい者だろうが、そんなことは関係ない。命は命であり、軽視されるべき命はひとつもなく、尊重されるべき命しかない。

これは、前提(=価値観)の更なる前提である。

 

3.好きにならなくてもいいんじゃない? 親切にさえすれば

どうしても気に入らない。仲良くできない。好きになることができない。そんな人間は存在する。それは仕方がないし、避けられない。

そんなとき、仲良くせねばならないと考えるから辛くなる。別に仲良くなる必要はないのである。好きになる必要も、自分の奥深くに受け入れる必要もない。ただ軽視することなく、大切に、具体的に言えば親切にすればよい。

そうすることで他人を尊重することができる。そして、他人を軽視する自分を軽視することもなくなり、他人を尊重できる自分なら受け入れることもできる。

好きにならなくてもいい、親切にすればよい。

この考え方を指針にしてもいいのではないだろうか。

他人に構ってる暇なんてなくない?

1.あいつやばいぜ

 

先輩と話しているときだった。
先輩は言った。
あいつ、誰よりも早く来て誰よりも遅く帰ってる。あんなこと続けてたら倒れる。やばいぜ。

僕は言った。
それはそうですよねー。
しかし、内心思う。
そんなこと、どうでもいいと。

世間の人は、みんな他人のことを気にしていて、肯定したり否定したり、励ましたり心配したりしている。
そういう人が周りに多いのだけれど、どこでもそうだろうか?
少なくとも、今の職場は4社目だけれど、そういう人は多かった。そして僕も、そういう人間の一人だったと思う。

ただ最近、思うのだ。
僕自身のこと、僕の家族のことで手一杯なのに、他人の心配してる余裕なんてない。
僕や僕の家族以外の人が悩んでいようが、仕事で失敗しようが、倒れようが、そんなことは僕には関係ない。
僕自身の将来のことや、勉強している資格試験のことや、これからもちたい子供のことや……そんなこんなを考えるので手一杯なのだ。

そういうことを思うと、世間の人って優しいよなあと思う。
自分自身のことすらままならないのに、他人の悪口や心配やらで忙しい。
きっと他人に興味津々なんだね。
僕は残念ながら、そうではない。

 

2.思いやりと過干渉の狭間で

 

他人を心配する人って、思いやりがあって真面目な人なんだと思う。

自分と同じ失敗をしないように、誰かの損にならないように、先回りして色々とやってあげる。教えてあげる。まるで過保護な母親のように。

でも、その行為には、「他人の役に立って好かれたい」「さすがだと褒められたい」という打算が見え隠れしていて、そしてその奥に「他人は私が手助けしてあげないとなにもできない」という見下した無意識がある。それってきっと、自分では気がついていない。

思いやりっていうのは、相手のことを気遣うことだけれど、それは相手の不利益にならない範囲内のことをいう。そのラインを超えてしまったら、思いやりが一転、過干渉になってしまうのである。

僕は、そういう場面をよく見てきたし、今思えばあれは過干渉だったなと反省することもある。

他人だって、独立した一人の人間だ。自分のことは自分でできるし、たとえ間違ったとしても、それは自分で責任を取ったり正しくやり直したりできる。

過干渉は、そんな成長の機会そのものを奪ってしまうので、迷惑だと感じるのだろう。

 

3.「シンパイ」して欲しい女と「シンライ」してほしい男

生きることは避けられない、そして生きることで避けられないことがある、って話

よほどの事情がない限り、生きている以上は、生きることを避けられない。

そして、生きることで避けられないことが出てくる。

それらにどう対処すればいいのか、考えてみた。

 

1.生きることすなわち

こんなことがあった。

僕は会社員として働いている。本当によくあることではあるが、上司と客先との間で板挟みになった。

上司はこうしたい。客先はこうしたい。それらの間をとりもつ形だ。僕はただ、録音と再生を続けるだけである。だがしかし、僕は機械ではない。

余計なことではあるのだが、その内容について自分なりに思考してしまい、精神的に苦しくなってしまった。

これが生きることで避けられないことのひとつ、つらい気持ちになる、というものだ。

他にもいろいろある。他者に拒絶・否定・侮蔑されること、肉体的精神的に苦痛を味わうこと、無力感に苛まれること、その他多数。

 

2.苦しむ覚悟はあるか

撃っていいのは、撃たれる覚悟のある奴だけだ、なんて言うけれど、幸せになっていいのも、苦しむ覚悟のある奴だけだと思う。

メリットデメリットが同時に存在するように、裏のない表がないように、失敗のない成功がないように、生きることと幸せと苦しみはセットなのだと思う。

けれども、自分にその覚悟があるかと言えば、それはちょっと違うと思う。覚悟をする前に、覚悟が必要だと知る前に、もうこの世に生まれてきてしまったのだから。

生まれてきてしまったものは仕方がないので、生きることは避けられない。

生きることが避けられなければ、幸せも苦しみも受け入れるほかない。

そう、覚悟を決めるしか、そもそも選択肢がないのである。

 

3.受け入れて受け流すこと

苦しみを避けられないことはわかった。もちろん苦しみの絶対数を減らすことや遭遇確率を下げることは可能だろうが、全くゼロにすることはできない。

そうであるならば、生きている以上、必ず苦しまなければならないのか?

答えは否、である。

受け止めることと、味わうことは違う。見つめることと、見ることは違う。

苦しみを避けられないのであれば、それらの苦しみについては、ただ受け入れて受け流せばよい。

それだけである。

感情が発生することは変更できない。しかしその感情を味わうかどうかは選択することができる。

苦しみに遭遇したならば、それらを受け流せばよいだけなのである。

 

感情をオフにするスイッチがあれば、一番いいのだが。

テクノロジーに解決してほしい問題を並べてみた。

手元の端末があれば、いつでも、どこにいても、なんでもできる。

そんな自由な時代だからこそ、もっと自由を拡張してほしい。

 

1.国家、搾取者、物理証憑の消去

今の世の中は、生きていくためにとにかく所属が必要である。

国家・企業はもちろんのこと、健康保険組合から町内会まで多種多様、複雑怪奇。

しかもそれぞれで「手続き」なるものが存在しており、なにをするのにも大量の書類が必要になる。

明らかに電子的に情報が保存されているのに、管轄が違うという理由で自分たちではなく利用者に「手続き」を求める。

なぜ、自分の住所を証明することに、時間と労力と対価が必要なのだろうか。参照するだけなのである。

なぜ、供給者から欲しいものの供給を受けるだけなのに「○○手数料」などと対価が必要なのだろうか。

特に自分のお金を手元に引き出すだけで対価を要求されることについては、いったい何の対価なのかと教えてほしいくらいだ。

商品売買や役務提供について、テクノロジーは供給者と需要家を直接つなぐことができる。

これまで発生していた「手間」は、もはや存在していない。

 

2.固定的画面から可変的画面へ

いつまで画面の大きさに悩まされねばならないのだろう。

端末は、中身の性能もさることながら、画面の大きさで機能に制限がかかる。

今後は、手元の端末は処理装置に接続するだけのものになり、その処理装置の持つ演算能力を利用して、様々なサービスを受けることになるだろう。そうなれば手元の端末に極端な処理能力は必要なくなり、中央処理装置にのみ性能を集約させることで、供給の効率も高まるだろう。

結果的に性能の異なる複数の端末を持つ必要はなくなり、残る問題は画面の大きさの可変化である。

拡大や縮小をすることができるのだから、画面そのものを拡大や縮小することもできるだろう、と僕は思う。

僕だけか?

 

3.固定的衣食住から可変的衣食住へ

服を所有し、管理することは大変な手間である。電子的に見た目を変更できる「衣」がほしいものだ。服飾のサブスクリプションサービスはそれに近いものがあるが、やはりまだ「物理」にとらわれている。物理にとらわれ続ける以上、それを保管する、管理する、運搬するといった問題が出てきてしまう。

食を考え、管理することは大変な手間である。ただしこれは物理でしかありえないため、難しい。まずは食に関する手間を機械に代替させればよい。

家に住むことも大変な手間である。そしてこれも物理である。賃貸物件に住む場合、現在は存在するものの中から選ぶ形式しか存在しないが、好みの内装や配置を自分で決められるようになってほしい。

様々な供給者が様々な方法で(お洒落です、使いやすいです、駅が近いです、駐車場があります、などなど……)供給物の優位性を訴えているが、そもそも需要と供給を一致させる作業が非効率である。需要と一致した供給だけを生み出せばよいのである。

 

とにもかくにも世の中は非効率である。

需要を満たす際、必ず「探す」「手続きを行う」「待つ」などの工程が入り、供給に結びつくようになっている。

弁護士に相談したければ、子供を預けたければ、納税したければ、探すのではなく手元の端末に相談する。

それで完結するはずなのである。

働くことがわからなくなってきた、って話

会社員生活を始めて、10年になる。

この間で得たことといえば、意思疎通、パソコン操作の経験だろうか。

他の経験は正直言って特殊すぎて、一般的に通用するものではない。

社会人になるためにとりあえず始めた会社員生活だけど、最近行き詰まりを感じるので、落ち着くために書き出してみようと思う。

 

1.会社員からみた会社、会社からみた会社員

会社員は、会社に所属しているだけで、名乗ることのできる「肩書き」を得られる。

それって、安心感を得るのに十分だと思う。

なんとなく守ってもらえているような気がするし、自分の居場所があるように感じる。

ところが会社からみた会社員は、ただの「経費」でしかない。

会社員は、名前や人格で管理されるわけではなくて、番号と費用で管理される。

この社員番号の人は、給与総額いくら、源泉徴収税額いくら、法定福利費いくら、売上への貢献いくら、結果として利益いくら……。

従業員の人生や、生活や、将来なんて考えていなくて、退職したら番号を削除して、次の従業員を雇う。それは単に、新しい番号が増えるだけ。

雇用契約書は、会社員の将来に対する補償なんて書いてないし、いなくなったらそれで終わり。

けれども会社員本人にとっては、人生を左右するほどの大ごとなのだ。

会社が人を雇うことと、人が会社で働くことは、それぞれの将来に対する影響度について、明らかな非対称性がある。

平等ではない。

 

2.会社員として働くこと

そのような不平等な関係性の中で、一生懸命働いたとしよう。

けれどもそれで、いったい何になるのだろう。

結局利益は会社に残るだけであり、その利益は役員に流れるだけ。

グーグルでは過去にセクハラ問題があり「会社がセクハラをした幹部に9千万ドルを払うために、私は毎日懸命に働いているのか」なんて言葉も上がっていた。

けれど、それは事実そうなのである。

会社員は働くことについて、自分なりの美学や矜持や甲斐を見出すけれども、会社側からすればそんなことはどうでもいい。

大切なのは会社が存続する(生きる)ことであり、そのための利益を上げることであり、利益が上がるのなら従業員が善良だろうと邪悪だろうと関係ない。

そうであるならば、一生懸命働いても、手を抜いて働いても、利益さえ上げれば関係ないのではないか。

もっと言えば、上場企業の役員でさえ株主の奴隷であり(グーグルについては創業者の株式保有割合や議決権割合が複雑なようだが)、一部の資本家のためにあくせく働いていることになる。

「会社員として働くこと」という言葉については、やはり虚しさしか感じない。

 

3.誰かの役に立つということ

会社員として働くことではなく、別の考え方をしてはどうか。

この世の中は、たくさんの人がたくさんの役割を少しずつ担うことで、全体として存続している。

そういう意味では職業に貴賤はなく、だれもが平等に世の中に貢献している。

けれど、会社員としての仕事には、直接的にそのような実感を得られる機会が少ない。

そこに虚しさの一端がある。

どうしても目の前の「意味があるかわからないクソな仕事」や「理不尽な上司」や「面倒な同僚」や「人として肯定できない顧客」に思考が持っていかれ、自分がなにをしているのかわからなくなってしまうのである。

そんなこんなで僕も虚しさに襲われたので書き出しているのだが、まあ多分、あなたも誰かの役に立っているよ、という考え方が落としどころなのだろう。

 

人間は思考する生き物である。

その思考は行動や肉体にも影響を及ぼす。

なんてやっかいな機能なのだろうと思う。