働くことがわからなくなってきた、って話
会社員生活を始めて、10年になる。
この間で得たことといえば、意思疎通、パソコン操作の経験だろうか。
他の経験は正直言って特殊すぎて、一般的に通用するものではない。
社会人になるためにとりあえず始めた会社員生活だけど、最近行き詰まりを感じるので、落ち着くために書き出してみようと思う。
1.会社員からみた会社、会社からみた会社員
会社員は、会社に所属しているだけで、名乗ることのできる「肩書き」を得られる。
それって、安心感を得るのに十分だと思う。
なんとなく守ってもらえているような気がするし、自分の居場所があるように感じる。
ところが会社からみた会社員は、ただの「経費」でしかない。
会社員は、名前や人格で管理されるわけではなくて、番号と費用で管理される。
この社員番号の人は、給与総額いくら、源泉徴収税額いくら、法定福利費いくら、売上への貢献いくら、結果として利益いくら……。
従業員の人生や、生活や、将来なんて考えていなくて、退職したら番号を削除して、次の従業員を雇う。それは単に、新しい番号が増えるだけ。
雇用契約書は、会社員の将来に対する補償なんて書いてないし、いなくなったらそれで終わり。
けれども会社員本人にとっては、人生を左右するほどの大ごとなのだ。
会社が人を雇うことと、人が会社で働くことは、それぞれの将来に対する影響度について、明らかな非対称性がある。
平等ではない。
2.会社員として働くこと
そのような不平等な関係性の中で、一生懸命働いたとしよう。
けれどもそれで、いったい何になるのだろう。
結局利益は会社に残るだけであり、その利益は役員に流れるだけ。
グーグルでは過去にセクハラ問題があり「会社がセクハラをした幹部に9千万ドルを払うために、私は毎日懸命に働いているのか」なんて言葉も上がっていた。
けれど、それは事実そうなのである。
会社員は働くことについて、自分なりの美学や矜持や甲斐を見出すけれども、会社側からすればそんなことはどうでもいい。
大切なのは会社が存続する(生きる)ことであり、そのための利益を上げることであり、利益が上がるのなら従業員が善良だろうと邪悪だろうと関係ない。
そうであるならば、一生懸命働いても、手を抜いて働いても、利益さえ上げれば関係ないのではないか。
もっと言えば、上場企業の役員でさえ株主の奴隷であり(グーグルについては創業者の株式保有割合や議決権割合が複雑なようだが)、一部の資本家のためにあくせく働いていることになる。
「会社員として働くこと」という言葉については、やはり虚しさしか感じない。
3.誰かの役に立つということ
会社員として働くことではなく、別の考え方をしてはどうか。
この世の中は、たくさんの人がたくさんの役割を少しずつ担うことで、全体として存続している。
そういう意味では職業に貴賤はなく、だれもが平等に世の中に貢献している。
けれど、会社員としての仕事には、直接的にそのような実感を得られる機会が少ない。
そこに虚しさの一端がある。
どうしても目の前の「意味があるかわからないクソな仕事」や「理不尽な上司」や「面倒な同僚」や「人として肯定できない顧客」に思考が持っていかれ、自分がなにをしているのかわからなくなってしまうのである。
そんなこんなで僕も虚しさに襲われたので書き出しているのだが、まあ多分、あなたも誰かの役に立っているよ、という考え方が落としどころなのだろう。
人間は思考する生き物である。
その思考は行動や肉体にも影響を及ぼす。
なんてやっかいな機能なのだろうと思う。