Heavy Duty

一緒に考えましょう。

嫌いな人と付き合う方法なんてあるのか?

人間はいろいろである。

いろいろな人間がいる社会で生きていれば、同じ人類であるということが疑わしいほど思考が異なったり、前提が異なったりして相容れない人間に出会うことがある。

不幸なことに、その人間との付き合いが不可避であることも、ある。

そんなとき、僕たちはどうすればいいのだろうか。嫌いな人と付き合う方法なんてあるのだろうか。そんな疑問が尽きないので、少し考えてみることにする。

 

 

1.生理的に無理

よく聞くフレーズである。

少し分解して考えると、人間の思考はいろいろな前提(=価値観)によって形作られている。

潔癖、がさつ、他人には干渉しない、八方美人など、挙げればキリがない。そんなキリがない無限の前提は、その前提に当てはまらない人間を拒絶する。

潔癖な人は不潔な人が無理だろうし、干渉を拒絶する人は馴れ馴れしい人が無理だろう。それは前提(=価値観)を絶対的なものとして(あるいは絶対的なものであると信じて)自分を作り上げている人にとって、道理である。

それは態度として不寛容だろうか? いや、勝手にすればよい。

多様な人間がいる以上、多様な前提(=価値観)が存在することは仕方がないし、それは本人以外誰にもどうすることもできない。

 

2.あなた自身のようにあなたの隣人を愛さねばならぬ

愛することすなわち、好きになるというのは、ちょっと違うと思う。

いつくしむということは、必ずしも好きになることや受け入れることを必要としない。ただ、そこにあるものを大切に扱う。それで良い気がしている。

人と人とが関わるとき、必ず好き嫌いを持ち込むことの方が間違っている。他人のありようそのものは肯定も否定もせず、ただそこにあるものとして大切に扱う。そうすることができれば、好きだろうが嫌いだろうが関係なく、大切に扱うことができるはずである。

そもそも、好きか嫌いかなんて判断に、意味も価値も理由も目的もない。好きであるという気持ちは、好きであるというだけであるし、嫌いであるという気持ちは、嫌いであるというだけである。どこへもいかないし、なににも影響しない。自分の中の閉じた世界の中でのはなしであって、それを自分の外である社会へ行動を伴ってアウトプットすべきではない。

そして、命は命だ。男だろうが女だろうが、働いていようがいまいが、若かろうが年寄りだろうが、健常者だろうが障がい者だろうが、そんなことは関係ない。命は命であり、軽視されるべき命はひとつもなく、尊重されるべき命しかない。

これは、前提(=価値観)の更なる前提である。

 

3.好きにならなくてもいいんじゃない? 親切にさえすれば

どうしても気に入らない。仲良くできない。好きになることができない。そんな人間は存在する。それは仕方がないし、避けられない。

そんなとき、仲良くせねばならないと考えるから辛くなる。別に仲良くなる必要はないのである。好きになる必要も、自分の奥深くに受け入れる必要もない。ただ軽視することなく、大切に、具体的に言えば親切にすればよい。

そうすることで他人を尊重することができる。そして、他人を軽視する自分を軽視することもなくなり、他人を尊重できる自分なら受け入れることもできる。

好きにならなくてもいい、親切にすればよい。

この考え方を指針にしてもいいのではないだろうか。