Heavy Duty

一緒に考えましょう。

死刑と人権。

死刑について調べていた。

死刑といっても、死刑となる犯罪にはいくつか種類がある。強盗殺人や放火殺人が死刑なのはなんとなく腑に落ちるが、中には国家転覆を目論んだ行動も対象になっていたりとなかなか興味深い。

人間が人間を評価し、「死あるのみ」と判定する行為そのものについて、少し考えてみたい。

 

死刑存廃についてどう思いますか?

私は死刑の代わりに、釈放や恩赦の対象とならない終身刑を最高刑とすればよいのではないかと考えている。死刑を肯定しない理由としては、誤審の場合に取り返しがつかないこと、裁判官や死刑執行までに関わる人間の精神的負担が重いこと、人が人の命を奪うことはどのような場合でも認めるべきでないこと(認めてしまうと人類にその選択肢があることになってしまう)があげられる。

一方、終身刑などを最高刑とする場合には、単純に費用が掛かることが問題だが、終身刑を最高刑とするデメリットと、死刑を最高刑とするデメリットを比較すると、明らかに死刑の方がデメリットが重いため、私はこの立場をとる。

ただ、この死刑の対象となる犯罪の選定は、現在の体制が作った相対的なものだということを忘れてはならない。形のない存在はいつだって相対的なのだ。

極端な例を挙げるとすれば、冒頭の国家転覆罪について考えてみてほしい。オウム真理教などがそうだ。

このオウム真理教の指導者たちは、少数派だったからあるいは国家転覆に失敗したから、処罰の対象となった。これがもし、国家転覆に成功していたら……当然ながら処罰されない

なぜなら法律とは、その場所を治めるトップが決めるものだからだ。トップが変われば法律も変わる。勝てば官軍、負ければ賊軍なのである。そう考えると民主主義はいかにも危ない。危険思想が多数を取れば危険国家が誕生してしまうからだ。

 

死刑と人権

死刑は重大な人権侵害だという考え方もある。これは、人間はみな生きるという最も基本的な人権を有しているのであり、死刑はこの権利を奪う行為である、という批判である。

私はこのことについて、疑問を感じている。というのもこの論理は、少し思考が性急ではないかと思うためである。

まず前提として、人権というのは読んで字のごとく人間が持つ権利のことであるが、人間は元来社会的な生き物なので、人間とは社会で生きるものであるという前提を考えるべきであると思う。

そう考えたときに、社会で生きるとはどういうことかを考えると、社会に迷惑や悪影響を与えるような行為は社会にとって悪であるので、その人間はもはや社会で生きることそのものを否定している。社会のルールを守らなくなったとき、その人間は社会の外で生きる人間となり、そのような動物同然、すなわち人間とはみなされない。

このように、人間として生まれただけでは、人間ではない。教育や思考によって、社会に適合しながら生きていくのが人間なのである。そのような生き方をして初めて、人権というものが与えられる。

人権は、人間同士がお互いを尊重するための考え方のひとつだ。そしてお互いを尊重するという前提のない人間が、自らの人権を主張するのは誤りである。自分の手で動物を殺し、その血で濡れた手で別の動物を愛でるような矛盾行為そのものだ。

このことから、犯罪者=社会に害を与える人間には人権を主張する権利がないと言える。ただし、だからといって人権のない犯罪者にならなにをしてもいいかと言えばそうではない。そんなことをしたらそれこそ犯罪者の仲間入りだ。

 

社会の限界

この世界はひとつである。ひとつの世界に、ひとつの社会。すなわちこの社会は、すべてを包括して受容しなければならない責めを負っている。

しかしながら、人間は画一的な存在ではなく揺らぎがあるため、どうしても人間そのものを否定するような人間も生まれてくる。これは仕方のないことだ。そのような突発的なジャンプが発生するからこそ命は進化し、繁栄してきた。

ただ、人間に危害を加える人間を社会が許容することは難しい。飛行機が道路を走らないように、地下鉄を人間が歩かないように、能力や機能の異なる存在はレイヤーを分けて管理しなければ重大な事故が起きてしまう。ここに社会の限界、もっと言えば社会がひとつであることの限界がある。

人間が人間に対し、「死」や「無期限の拘束」を判定するのは非常に負担が重いことだ。ただそれが、例えば昔で言う島流しのように、もう戻っては来れない世界へ追放するが、別に死ぬわけではない、もしかするとその世界で楽しくやっていけるかもしれない、という判定であれば、いくらかましであろう。

昔は普通の人が普通に生きているだけの世界だった。それが近年では多様性を尊重するようになり、その多様性を互いに受容することが美徳であるという価値観が広がっている。そしてその考え方を拡大解釈し、犯罪者や無法者、ただただ破壊的行為を行う人間をも受容しなければならないかのごとく主張する者もいる。

多様性を受容するには、前提として互いの存在を尊重しなければならない。それができないであればもはや、レイヤーを分けて完全に遮断するしかないのではないだろうか。