Heavy Duty

一緒に考えましょう。

格差社会はなぜ起こるのか。

格差社会という言葉に慣れ親しんで、もうずいぶんになる。

所得が低いのも、学歴が低いのも、コロナで働き口がなくなるのも、年取って働き口がなくなるのも、すべて格差社会のせいにされている。きっと格差社会さんは涙目だろう。

好きで生まれてきたのではないし、好きで長く生き続けているわけでもない。それなのにお前のせいだと揶揄され、罵倒されて、目の敵にされてきた。中には格差是正などと言って殴りかかってくる輩すらいる。かわいそう。

今回はちょっとしたきっかけで格差社会について考えたことがあったので、少し解説していく。

 

あなたはディスタンクシオンを知っているか?

ディス……え? 聞きなれない言葉に戸惑ったかもしれない。

先日ふと書店によった際、NHKテキストの100分で名著のコーナーが目に入った。このシリーズは重厚な思考を比較的安価に提供してくれるので好きなのだが、その中にこの本があった。なにやら「自分が好きで選んだ趣味さえも、実は選ばされたものである」とある。そうであるなら、私が今この本を手に取ったのも偶然ではなく必然なのだろうか、などと思いつつ購入してみたのがきっかけだった。

要約すると、主に次のようなことだった。

人は生まれ育った環境を身体的に記憶し、あらゆる行動はその記憶によって決定づけられる。育った家庭環境によって学校環境が異なり、過ごしてきた学校環境によって社会環境が異なる。そして社会環境が異なれば、おのずと所得も異なるということだろう。

例えば音楽の話で言うなら、クラシックが好きな集団とロックが好きな集団がいるとする。クラシック集団はいかにもインテリといった風情で、日常的に古典的な音楽に触れ、美術館や図書館に足を運ぶなど芸術的・文化的な活動を大切にする。一方ロック集団はというと、日々を激情の中で過ごし、そのような仲間同士で集まることによってより一層の喧噪や混沌を求める。そのような様子をクラシック集団は眉をひそめて噂し、一方のロック集団もクラシック集団についていけ好かない奴らだと揶揄する。

このように、クラシックだとかロックだとかいう「立場」は、音楽という「世界」の中でお互いを攻撃しあい、たえず闘争の中にあるのだという。というのもそれぞれの「立場」はまた別の「立場」と自身を比較し、そのことによって自分自身を再定義することで成り立つ、つまりは相対的な存在だからだ。

けれども私は、この闘争という言葉は表現が強すぎるのではないかと感じた。なぜなら闘争とは、相手と勝ち負けの世界で争うことをさし、それは必ず相手を否定する手順を踏むからだ。確かに「立場」はまた別の「立場」との間で相対的に存在するものだが、両者の隔たりが必ずしも否定であるとは限らないと思うのだ。つまりは受容、あるいは共存という考え方もあり得るのではないだろうか。そう考えると闘争というよりは隣人というべきだろう。

 

全ては生まれたときから決まっている

ともあれ環境がその人の行動に影響を与えることは間違いなさそうだ。勉強に取り組む姿勢を良しとする家庭に生まれれば、学校に入っても自然と自ら学ぶだろうし、そういった「立場」の友達同士で集まるようにもなるから、その姿勢はますます強まっていく。しかしここに隠れた前提がある。それは、家庭環境の状況は経済状況にもろに影響を受けるということだ。

当たり前だが所得が低く長時間労働を強いられているような両親のもとに生まれれば、両親は労働にほとんどの時間を費やすため、子供と一緒に豊かな時間を過ごすような時間がない。加えて、家庭で勉強や芸術に取り組むためには、端的に言って金がいる。それは東大生の親の半数超が年収950万超であるというような統計からも明らかだろう。

さらに悪いことに、そのようにして身に着けた、あるいは身に着けてしまった姿勢は、自身を両親と同じような大人に育て上げ、生まれてくる我が子も同じように育てる。人間は遺伝子の運び手であるともいうが、このような人間の「立場」そのものも運び、再生産してしまうのである。

義務教育を施す学校は、本来はこのような格差をシャッフルするためにあるといわれる。いわく、人間を同じ環境において同じインプットを行うことで、環境による影響を排した成長を促すというものである。しかしここにも誤った前提があり、同じインプットでも受け取り方が違えば、例えば降ってくる雨を集めるのにガラスのコップしかもっていない人間と巨大な桶を持っている人間とでは同じ結果になるわけがない。このコップを持ち込むのか桶を持ち込むのかという部分の差が即ち家庭環境の差なのであり、むしろ桶を持っている人間を目の当たりにしてしまったら、自分はコップ程度の生き方しかできないと思い込んでしまうこともあるだろう。そもそも学校というのは、入る時点で名門校と普通校があるのだから、制度それ自体、「立場」のシャッフルという考え方と整合していない。

このような仕組みから、個人の「立場」は固定され再生産され、また同じくして所得つまり経済格差も固定され再生産されていくのである。これが格差社会の仕組みだ。

 

突破するためには

こうしてできあがった格差社会に生れ落ちてしまった私たちは、もう二度と他の世界へはいけないのだろうか? 再生産された私たちは、それぞれの両親と同じように決まった世界で生きていくしかないのだろうか?

私はここで、そんなことはないと言いたい。貧しい家の出の人が偉人になる話はいくらでもあるし、逆に没落した資産家の話も多く転がっている。目の前の現実を受け入れることも、今の自分を正しく認識することも大切ではあるが、私たち人間は思考によっていくらでも行動を変えていくことができる。

世の中のあたりまえのこと、広く受け入れられている考え方のひとつひとつを点検し、疑問をもって思考することができれば、たとえ少しずつでも良い方向へ変わっていける。それこそが人間が生きている証だと思うのだ。