Heavy Duty

一緒に考えましょう。

どうしても合わない人。職場あるいは社会において。

社会の中には必ず異常者がいる。

この異常者を排斥することで全体の健常性を維持するというのが今の社会の方向性だが、問題なのは排斥されない程度の異常者に出くわしたときだ。

明らかな犯罪者であれば排斥される。明らかな精神異常者であれば隔離される。しかし、グループの輪を乱したり、部下に異常な物言いをする上司、人として賛同できない態度をとるクライアントなど、迷惑極まりない人間というのは枚挙に暇がない。

そのような異常者とかかわることになるかどうかは、運ゲーであるとしか言いようがないわけだが、なぜそのような状況になってしまうのか、そしてそのような状況に遭った(もはや災害に遭うも同然である)際にどうすればいいのか考えてみたい。

 

職場というガチャ同然の運ゲー

やっとの思いで筆記試験や面接試験を通過したとしても、その先にどうしても合わない人がいたときは目も当てられない。ただ単に不幸であるとしか言いようがない。それほどに、付き合う人が合うか/合わないかというのは本人の力ではどうしようもないことなのである。

この社会では自己主張することの自由が認められており、同時に社会的な生き物としての立場が責任として付きまとう。異常な人というのは、この自己主張という権利ばかりを主張し、他人に合わせるという義務を無視しがちである。本来なら自由と権利はコインの裏表であり、同時に存在する(片方のみが存在することはできない)のだが、もはや常軌を逸した価値観を持つ異常者にそのような道理は通用しない。

そんな人間が近くにいると、どうしても気になる。憂鬱になる。彼/彼女の一挙手一投足にイライラする自分に心底うんざりしながらも、しかしどうすることもできない。「どうしても合わない人との付き合い方」というワードで検索した人は数知れないだろう。現に私もその中の一人である。

職場でそのようなジョーカーを引いた場合は最悪である。基本的に逃げることができないからだ。同僚であれば四六時中一緒にいなければならないし、上司であれば意思決定をするたびにかかわらなければならない。あるいは取引先でそのような異常者に当たってしまう(もはや当選である)とこの世の終わりである。取引先の人間を雑に扱うわけにもいかないし、そもそも売り上げを運んでくる相手だからへりくだった態度を取らなければならない。出勤したくなくなるのも頷ける。

 

対処法なんてあるのか?

どうしても合わない人が近くにいることで精神的に疲弊し、どうにもならない状況になってしまったらどうすればいいのか。自分自身の現実の捉え方を変えたり、身近な人に相談してみたり、合わない人が遠くへ行くおまじないをしてみたり……私はすべて試してみたが、どうにも効果があるものはなかった(いや実はおまじないは少し効いた)。

ではどうすればいいのか? 答えは二択である。自分の望むガチャを引けなかったときどうするかを考えてみてほしい。きっと諦めて続けるか、リセットしてやり直すしかないだろう。

日本人は会社員という立場で働いている人が9割近くいるらしいけれども、そのような中でも上意下達の組織の中にいると、「その会社で働くかどうか」以外のことをひとつも選べないのである。なぜなら、雇われているということは即ちコピー機と同じだからである。

考えてみてほしい、こんなコピーはしたくないと文句を言うコピー機を買うだろうか? あるいはすぐに壊れる、インク(やる気)がなくなる、出力が遅い、白黒印刷しかできない(融通が利かない)コピー機が欲しいだろうか? そうして考えてみると、買われる者は買う者に合わせなければすぐに捨てられてしまう。代わりなど別のところからすぐに買ってこられるのだから。

だからこそ指示に従わなければならない。どんなに異常な人間だとしても、その人間と仕事しろと言われればしなければならないし、その人間に売り込んで来いと言われればそうせざるを得ない。それを拒否してしまったが最後、自分の居場所がそこからなくなるのだ。

 

普通の人が損をし、異常者が得をする現代

人間にいろいろな権利を認めた結果、その権利を過大に解釈し、他人に迷惑をかけてでも自分の利益を守ろうとする人がでてきた。そのような人は、他人になんと評価されても一向に気にすることなく、我が道を生き続けるので、資本主義という利益と効率が支配する世界で有用であることが多い。雇う人間は異常者を配置し、異常者は普通の人を傷つけ、利益を吸い上げていく。このような構造が出来上がってしまっている。

また、権利が認められているばかりに、どんなに異常な人間だとしても、簡単には社会から追放できなくなってしまった。法律を犯すなどの決定的な一線を超えない限りは、人権侵害になるような排斥を行うことはできない。村八分のようなことができればいいのだが、それも個人主義の現代では現実的ではない。

結果的に、一般的で普通で常識的でおとなしい人間ばかりが損をすることとなり、異常者がその異常性を振りかざしたまま時間は進み続ける。憎まれっ子世に憚る、である。

そんな中、私も異常者になるしかないと密かに決意したのは言うまでもない。無垢な羊のままでは、刈り取られるだけなのである。