Heavy Duty

一緒に考えましょう。

好きな物書きさんがいる。

竜崎大輝さんという人だ。

その時の思考から目を離さず書き綴っていて、人間や社会や生き方といった俯瞰した視点と、自分個人に焦点を当てた構成の対比が上手だと思う。加えて、何度も何度も思考を重ねてきたことにより備わった知性と、数多くの文章に触れてきたことによる語彙力がうかがえる。プロのライターさんだから当たり前だといえばそれまでなのだが。

私は文章を読むのが好きで、特に自分の思考に近い文章を読むのが好きだ。これは普通に考えたら当たり前なのだが、他人の文章を読むというコミュニケーションについて、少し考えてみたい。

 

文章とはなんなのか。

私にとって文章とは知識を得るための道具、他者とコミュニケーションするための記号である。はるか昔の人類は、生きていくために同族と協力する必要性に迫られ、言語を生み出した。そして蓄積された経験を次の世代に伝えるために文字を生み出した。それら歴史的な流れからみても、私の文章への認識は誤りがないように思える。

ただ、普通に生きていても文章と呼べるものに触れる機会は少ない。そもそも生きるということ自体が必要に迫られた行動の連続で、ほとんどが繰り返しである。その繰り返しの中にいる限り、新たな知識が必要になることはないし、他者とのコミュニケーションも必要最低限で済むだろう。

そんな中で文章に触れたければ、自分から行動するしかない。行動してまで求めるものであることを考えると、文章とはもはや日々の生活に密着したものではないのかもしれない。

 

他者の思考に触れるということ

私が文章を求めるのは、他者の思考に触れられるからである。私は人生や生き方について考えることが好きだし、未来やテクノロジーについて考えるのが好きだ。前者は倫理的な思考、後者は論理的な思考といえるだろうか。特に森博嗣先生の小説はこれらが混然一体となっており、私にとっては至高の思考である。

人間は生きているが、私は、人間にとっての生きることとは、思考することだと思っている。必要に迫られて行動・言動を行うのでは、ただの動物あるいは機械でしかない。現状を認識し、規範や方向性を定め、そこに至るためにどうすればよいのか思考し、実践していくのが人間であるし、生きることだと思っている。

そんな私にとって、他者の思考に触れるということは、他者の生に触れることと同義である。あまり他人に対して貪欲な興味を持つ人間ではないが、しかしその興味はゼロではない。さらに言えば対面して対話を重ねるより、文章を読めば早ければ数分で他者の思考あるいは規範に触れることができる。これは私にとって喜び足りえるのである。

 

共感の本質

人が人に共感することは、換言すれば安心できる、あるいはひとりではないと錯覚できる、又は自分が間違っていないと思い込むようなものだと思う。

世界の価値や善悪はすべて相対的なものであるから、これが絶対唯一正しいというものは存在しない。だからこそ人間は、自分で自分を正しいと思えなければならないし、そうできなければ非常に生きにくい。しかしそのようなことができる人間ばかりではない。人によっては誰かと価値観を共有することで、自分は間違っていないと確認することもあるだろう。そしてその方法は決して間違っていない。

人間は一人で生きていくことはできない。社会の中で生きていくしかない。社会の中で生きていくということは、他者にとって受け入れられやすい人格でなければならない。この、他者にとって受け入れられやすいというのは、自分で自分を観測したり判定することは難しいため、必然的に誰か他者とのコミュニケーションのなかで確認するしかないだろう。

かくいう私も、人並みに安心したい。だからこそ誰かの文章を読み、共感し、安心するのだろう。

 

書かれた文章を読むという緩い関係性

書いているうちに思い至ったのだが、もしかすると私は、対面でのコミュニケーションという直接的な、ある意味殴り合いに近いやり取りを得意としていないのかもしれない。書かれた文章であるなら、それを読む読まないはもちろん、受け取るかどうか、読み続けるかどうかがすべて自分の自由である。

加えてインターネットを通してのコミュニケーションは、概ね一方的であり、誰かが不特定多数へ発信するか、不特定多数へ発信されたものを誰かが受信するかのどちらかが多い。つまり双方向、やりとり、言葉の応酬ではなく、単なるインプット、入力に近いものである。

このあたりの差し迫ってこない緩い性格が、私を引き込んで離さない魅力なのかもしれない。直接会うことによる濃密なコミュニケーションと、間接的に思考に触れあう文章でのやり取りは、現代人の心のバランスを取ってくれるのだろう。

それは良い悪いの話ではなく、否応なく人間の方向性のひとつとして生まれつつある。文化が生まれるのは偶然かもしれないが、それが根付くのは必然であると思うからだ。