Heavy Duty

一緒に考えましょう。

自責と他責のバランスの悪さ

こんなとき、あなたはどこに原因があると思いますか?

仕事でミスをして、他者に影響を及ぼしてしまったとき。

自分で営業している定食屋が、コロナ給付金を受け取っていないのにもかかわらず、給付金でぼろ儲けしていると揶揄されたとき。

 

日本人の典型的な思考パターン

仕事でミスをして、誰かに影響が出たとき、多くの人は自分のせいだと考えるだろう。多少無理をしてでもフォローのために動き回り、眠れぬ夜を過ごし、影響を与えてしまった人に謝って回るだろう。

不当な揶揄を受けたとき、多くの人は社会のせいだと考えるだろう。正しい情報が正しく行きわたらず、誤った思い込みで不当な揶揄が出回っていると考え、これが本当のことだと訴えるだろう。

これらの思考パターンは、日本人の典型的なものだと言える。もはや文化的に築かれてきたといってもいい、それほどに根強くひとりひとりの思考に息づいている。ただ、これらの考え方が全てだと思い込んでいると、自分が辛い目に遭うか、あるいはきちんと課題解決できない。

例えば仕事でミスをした例。そもそも仕事というのはひとりではなくチームで進めるものであるし、一生懸命取り組んでいてミスをしてしまったのなら、それはもはや仕方がないことだろう。完璧な人間などいないのだし、それを補うためにチームで仕事をしているのだから。

もし自分自身に足りない部分があったとしたら、それはきちんと休んでいなかったことかもしれない。残業続きの日々に追われて、思うように睡眠時間や余暇の時間を確保できなかったのかもしれない。

しかし、そうだったとしても、その残業が発生するような状況というのも自分自身のせいではない。チームであるならばそんな状況が発生する前に手を打つべきだし、残業が発生するような進め方をしているならもはやチームとして機能していない。

こうして考えると、仕事でミスをしてしまったことは必ずしも属人的な問題だけで片付けられるものではないことがわかる。これはつまり、他責思考をしてしかるべきだということだ。

もうひとつの不当な揶揄の例。一部の心ない人間から誹謗中傷を受け、深く傷ついてしまったようなとき、社会や政治やメディアが悪いのだと考え、正しい情報を発信しようとつとめるかもしれない。けれども、本当にそうだろうか?

人間は均一な存在ではないから、必ず異常精神者が現れる。この異常精神者から攻撃を受けることは、社会で生きるならある程度は仕方がないことである。異常精神者を擁護するわけではないし排斥すべきだとも思うが、これらが一定数発生することは仕方がないのだから、そのようなことは織り込んで活動しなければならない。

自分の店を持つということは、このような不特定多数の人間の興味や攻撃にさらされるということだ。この、自分の店を持つという判断をした時点で、そのことに対するリスクは自分で背負うべきである。

そうであるならば、これら不当な揶揄を受けることは既に織り込み済みなのだから、ツイッターSNSで騒ぎ立てるようなことではない。苦情やクレームは日常茶飯事であるし、そのなかのひとつでしかなく、特別なことでもなんでもない。

こうして考えると、不当な揶揄を受けることは政府が正しい情報発信をしていないことが原因なのではなく、そもそも自分の店を持ったことが原因なのだから、ただ黙々と受け流せばいいだけなのである。

 

外部に原因があるときに内部に原因を求め、内部に原因があるときに外部に原因を求める

なぜこのようなちぐはぐな状況になってしまったのだろうか。これは日本人の典型的な思考パターンであるように観測されるため、もはや国内では普遍的なものになってしまっている。

ただ、このような思い込みを自ら外して、自分の頭で考え自分の足で立っている人もいる。人間なのだから画一的でないのは当たり前だ。

原因や結果なんてものは形のない相対的な存在なのだから、どう考えても正解でも間違いでもない。そうであるならば、自分にとって有利なように考えてもいいはずである。もちろん、社会の秩序を破壊しない程度に、である。

このバランスの悪さが、自殺者の多さや政治への関心のなさにつながっていると感じる。合理性よりも体面や感情を優先するというか、とにかく利がないように思える。

鼻マスクで利がない主義主張をした人も、きっと思考がちぐはぐになっていたのだろう。自分がこのような状況にいるのは自分のせいではない、社会のせいだ、とか。そのような思い込みは、時として人間を自己破壊的な方向性へ突き動かす。普通に考えて、指示されたらそれに従えばよいし、トイレに立てこもったとしてもなんの意味もない。ただこのように、単に社会を破壊してやろう、他者へ悪影響を与えてやろうという悪感情が誘発される場合があるということだ。

異常精神者や不当要求者は一定数必ず発生するので、仕方のないことではある。だからこそこのようなものは排除しなければならない。なぜならここは社会であり、社会不適合者に人権は認められないからだ。

異常な精神が異常な精神と呼ばれるのは、この社会の中にいるからであって、ある人の要求が不当なものであるとみなされるのも同じ理由である。この社会にとって異常であったり不当であるとみなされることが不服なら、どうぞそうではない社会を作って頂きたい。それができないのならば、大人なのだからきちんと社会に適合して頂きたいものだ。