Heavy Duty

一緒に考えましょう。

はじまり、すすみ、そして。

生きているといつ何が起きるかわかりませんね。明日いきなり事故に遭うかもしれないし、昨日買った宝くじが当たっているかもしれない。

加えて人生は選択の連続で、他者からの外乱にさらされ続けます。私たちは、このような外乱からどのようにして身を守り、自分というものを確立していけばいいのでしょうか。

 

人生はメンタルブロックを植え付けられることから始まる

お金は貯金してもしもの時に備えなければならない、年上の人はどんなときも敬わなければならない、家族は大切にしなければならないなど、私たちは子供から成人年齢に達するまでに様々なインプットを施される。

しかし、そのほとんどは必要な前提条件がセットになっていない。もしもの時に備える方法は貯金するだけではないし、人間として尊重すべきでない年上の人はそもそも相手にする必要がないし、家族といえど他人なのだから、合う合わないがあって当然なのである。これら当たり前のことがすっぽり抜け落ちてしまっていて、ふと振り返った時に、そのことに気がつく。

私が今まで学んできたこと、常識だと思い込んで身に着けてきたことは、どれも本当に正しいものなのだろうか。突然足元が揺らぎ、積み上げてきたものが崩れ落ちていく感覚を味わう。そしてそのがれきを見つめ、途方に暮れるのである。

常識は思い込みであるし、普通なんて言葉は世の中を記号化しているに過ぎない。デカルトが言うように、思考する自分の存在のみが唯一絶対に揺るぎないものであるのだから、それ以外についてはひとつひとつ点検しながら積み上げていくしかない。

この、もともと植え付けられた常識というメンタルブロックにとらわれたままでは、なにも成し遂げることはできない。せいぜい平均化したいわゆる普通の人生を生き、そしてただ死ぬだけの時間の使い方にしかならない。

ではいかにしてそのようなメンタルブロックを外せばいいのか。答えは簡単で、単純に「なぜ」思考をすればよい。なぜ貯金することに価値があるのか、年上の人を敬う必要があるのはなぜなのか、家族を大切にすることが望ましい理由はなんなのか。

人間は思考する生き物である。思考できる能力さえあれば、この問いになんらかのかたちで答えることができるだろう。それが一般的な正解でなくても、他人にとって受け入れ難いものであっても関係ない。大切なのは自ら思考し、自ら答えを出すことである。

間違っていても全く問題ない。なぜなら、そのときはまた思考すればいいだけなのだから。

 

今あるもの

物理的に存在している物質や物体と、相対的に名付けられた概念とが、この社会には存在している(又は存在しているように観察される)。特に名称がついているものは取扱いがしやすく、思考の対象にすることが容易である。

「常識」について考えてみよう。常識とは一般的に妥当であると考えている物事の秩序、あるいは思考の方向性、結論の集合のことをいう。ただこの常識という言葉そのものに囚われてはいけない。この言葉を生み出したのは人間であり、定義したのも人間だ。人間が定義したということは、そこになにかの意思、あるいは思考が存在することになる。

常識という言葉を定義することにより、人間を常識で縛り、コントロールしようとする意志があったのかもしれない。あるいは、常識という言葉を認知させることによって、説明を省き記号化し、正しい思考を身に着けさせるプロセスよりも常識そのものが独り歩きするような場面を思考したのかもしれない。

言葉は、必ず意味を持ち、その意味は、私たちに必ず影響する。

言葉をつくり出すということは、すなわち思考をつくり出すということであり、活動、お金の流れ、ビジネス、市場すなわち潜在ニーズをつくり出すということである。

インフルエンサーという言葉は、昔はなかった。この言葉によって、インフルエンサーとしての立場を語る者が現れ、そこに集まる経済が、ビジネスが生まれ、お金の流れが生まれた。

うつ病という言葉は、昔はなかった。この言葉によって、うつ病としての立場が社会的に認知され、うつ病である者とそれを診る者という立場が生まれ、薬や診療が生まれ、お金の流れが生まれた。

今あるものは、多かれ少なかれビジネス又はお金の流れに結びついている。

 

これから生まれるもの

これからも新しい言葉は生まれ続けるだろう。新しい技術、新しい概念、新しい職業が生み出され、人間はそこへ関心を寄せ、そしてお金の流れがそこに生まれる。ビジネスが生まれる。

私たちはこうして、ある意味生み出しては飽きての無限ループを繰り返し、経済を回してきたのかもしれない。積み木を積み上げては壊して繰り返し遊ぶ子供のように、掘り終わった金山に見切りをつけて次の山を探す炭鉱夫のように。

その先には、いったい何があるのだろう? 私は、いつか人間は究極の合理性にたどり着くものと考えている。つまりはエネルギーの無駄をなくし、消費をなくし、開発と進歩だけに全てのリソースを費やす方向性。

きっとそのシステムの中に、人間はいないと思うのだ。