Heavy Duty

一緒に考えましょう。

さよならの向こう側

誰かのことを考えることで強烈に胸が苦しくなったり、誰かとの関係性がこうなったらいいなと想像したり、その誰かとのやり取りや一緒に過ごした時間のひとつひとつを思い返してみたりする。そのようなことに時間をかけることが次第に減っていき、最近ではほとんどゼロに漸近している。

次第にわかってくるのだ。なにをどうしても、望む結果が得られない場合があるということが。いくら考えても、想像しても、あるいは次はどうしようなどと想定したとしても、その結果望む未来が得られるとは限らない。それが例え、心の底から切望することであっても、夢にまで見るような憧憬だったとしても、そんなことは関係がない。

一緒に長い時間を過ごすということは、必然的にその先を考えることになる。結婚して、子供をつくって、より一層長い時間をこれからも一緒に、という風に。

そんな想像をするたびに、どうしても変えられないものが現れてくる。それは日常の小さな癖かもしれないし、ほんのちょっと習慣が違うだけのことなのかもしれない。あるいは将来の夢といった当人にとって大切なこと、主義主張その他たくさんのことがあるだろう。

それらひとつひとつのことを一緒に点検して、これはあなたに合わせよう、これは私が譲るね、これは諦めよう、これは頑張って取り組もうと、それぞれゆっくり決めていく。そのことができることが結婚であり、そしてそれができるかどうかが、お互いに結婚できるかどうかということを決める最も大きな判断材料である。

あなたと一緒にいると楽しい。趣味がよく合う。落ち着いた時間を過ごせる。愛しい。様々な感情はもちろん大切だ。それがなければ一緒にいることはできない。

しかし、その次の段階として、それ以上の実際的な生活についての相性が問題になる。すり合わせることができるならそれでいい。が、どうしてもお互いに譲ることができなかったら?

1時間一緒にお茶をして、1日一緒に遊びに出かけて、1週間一緒に暮らしてみて、1か月間一緒に家事をしてみて、1年間一緒にすり合わせをして、3年間一緒に良いことも悪いことも経験して、その次の日にどうしても相容れない部分が見つかってしまったら?

一緒にいることが楽しくて、これからも一緒にいたい。今までの視点は「私は」だったけど、これからは「私たちは」で考えていきたい。感情がそう告げていて、ふたりとも一致していたとしても。たったひとつ譲れない部分があるだけで、一緒にいられないということがわかってしまう。

仕方がないことだ。私たちは「大人」なのだし、社会の中で生きていかなければならない。生きていくための基盤にしている部分が相容れなければ、それはもう一緒に生きていくということはできない。どうしようもない。考えても無駄だ。答えは一つしかない。

私たちはいつでも、理性と感情のなかで揺れている。合理が支配するこの社会では、自分の理性こそが神であり、どんなものよりも優先する。もちろん感情よりも、他者の理性よりも、である。そしてこの理性は、時として感情を置き去りにした判断を下す。そんなとき、私たちはどうすればいいのか? 心が望む未来を、理性が否定してしまったら? 考えても無駄なのだろうか? 本当にどうしようもないのだろうか? はじめからもう一度考えてみてはどうだろうか? なにか他に方法はないのだろうか? 今ここにある感情はどう整理すればいいのだろう。ここに、私の中にあるこの感情は、確かにここに存在しているのに。

残念ながら、理性が導き出した答えは、感情で覆すことはできない。それが答えなのである。「大人」ならわかるだろう。社会は「大人」が支配している。その中で一度でも感情が優先された場面があっただろうか。どうしようもないことについて、なんとか足掻いてひっくり返せたことがあるだろうか。

「大人」であるならば、神である理性に従って判断しなければならない。その結果感情を置き去りにしたとしても、その感情の整理は自分の力でなんとかしなければならない。感情を殺してでも、あるいは過ぎていく時間に委ねてでも。とにかくその感情が優先されることは、もう、ない。

理性に否定されてしまったのだ。消滅するしか、道はない。

これが、誰かと一緒に生きていくという判断のどうしようもない困難さである。一緒にいるための100の理由があったとしても、一緒にいられないたったひとつの理由があるだけで、その関係は終わらせる以外道がない。

ただ、ひとつだけ方法がある。それは、理性で自分を作り替えるということだ。

絶対に子供が欲しい人間だったとしても、一緒にいるために子供は諦める。

絶対にフリーランスとして独立して自由に生きたい人間だったとしても、一緒にいるために会社員を選ぶ。

絶対に将来は両親と同居したい人間だったけれども、一緒にいるためにもうそれは諦める。

これが、結婚を継続するということであり、病めるときも健やかなるときも互いを助けるということであり、一緒に生きていくということであり、そして――「私たち」になることだ。

私は私に問う。今日も一日、「私たち」としての判断をしているか、と。