Heavy Duty

一緒に考えましょう。

日本人はなぜ努力を美しいと思うのか。

言霊という価値観による思考パターン

言葉には力が宿っていると考えられていた。言霊信仰である。言葉を口にした瞬間、その言葉はこの世界に存在することになり(言霊)、その言霊がこの世界になんらかの影響を及ぼすという考え方である。

そのような考え方が前提にあると、他人の欠点を指摘する言葉、リスクを予見する言葉を使うとそれらがこの世界に存在することになる、つまり他人には欠点が存在する、この世界にはリスクが存在するということになる。欠点やリスクが存在するのは当たり前なのだが、なるべくならそのようなものが存在しない方が望ましい。

だからこそ日本人はそのような言葉を口にしなくなった。口にしなくなった結果として、他者の心情や思考を察する文化が自然に生まれ、定着した。

これは、悪だっただろうか? 善だっただろうか? いや、評価には意味がない。

結果として今の日本人は、本当に考えていることを口にしなくなった。それが他者の欠点に関してのことだけであればよかったのだが、予想されるリスクや、目標や目的までも口にしなくなった。

目標や目的を口にしない、定めないということは、どこへ向かっているのかわからない。そしてどこへ向かっているのかわからなければ、自分が今いる場所と目標との差分を測定できない。すなわち努力や取り組みの結果を評価できなくなってしまう。

評価できなければ、改善できない。改善できなければ、そもそも努力している意味がない。なぜなら努力は目標を達成するための取り組みだからだ。

そのように目標がわからない、現実を言葉にしないという態度のままでは、自分が今どこにいるかもわからない。加えてリスクがわからなければ、リスクに備えることもできない。

 

思考パターンが生む価値観

このように、目標を口にせず、努力をきちんと評価できない状況では、毎日を生きている意味がない。そのような状況から逃れるには、今を肯定すること、すなわち例え結果に結びつかない無駄な努力であったとしても、努力すること自体が美であるという価値観にとらわれることになる。

世の中に価値のないものは数多くあるが、目標とする結果に結びつかない努力ほど無駄なものはない。しかし日本人の多くは(例え無駄であっても)努力自体に対する信仰があつく、自身の現状を客観的に評価できていない場合が圧倒的に多い。

義務教育を受けるのは生き方を学ぶためであり、大学で学ぶのは知的好奇心に取り組むことを学ぶためであり、働くことは生活するためのお金を稼ぐため、あるいは社会貢献をするため、あるいは自己実現を追求するためである。ただ義務教育を受け、大学に行き、働いて金を稼げばよいというものではない。

近年、日本人もようやく多様化が進み、義務教育を受けない、大学に行かない、会社員にならないという選択をする人も増えてきた。これは当然ながら、別の手段で生きることを学べるなら義務教育なんて受けなくてもいいし、知的好奇心を学べるなら大学に行かなくてもいいし、お金を稼ぐことができるなら会社員になんてならずともいいという思考があってのことだと思う。これは目標と手段が一致している限り問題がない。

問題なのは、これら目標を定めてそこに向かって進んでいる人に対して、やれひきこもりは社会の荷物だの、ユーチューバーは何も生産していないだの、インフルエンサー虚業だのと否定ばかりする者たちだ。彼らは、ただ自分たちの通ってきたレールや努力から離れているという理由だけで、自分たちと異なる存在を攻撃している。この攻撃自体も目標がない。ただ感情に従った行動だ。

そんなものは人間ではない。思考しない動物、あるいは命令を実行する機械に過ぎない。人間は、思考を重ね、自らを変革していくからこそ人間なのである。

 

 一番見えにくいのは自分

自分自身、胸に手を当てて振り返ってみなければならない。

今まで同じやり方でやってきたという理由で、目の前の現実に思考停止していないか?

なにか行動を起こすとき、その目標と手段は正しくリンクしているか?

目標と現実のギャップを評価し、常に客観的な軌道修正を行っているか?

皆が黙っているからという理由で、自分も黙ってしまっていないか?

僕が大好きな名探偵コナンという作品の中に、このようなセリフがある。

一度口に出しちまった言葉はもう元には戻せねーんだぞ。 言葉は刃物なんだ。使い方を間違えると厄介な凶器になる。言葉のすれ違いで、一生の友達を失うこともあるんだ。一度すれ違ったら、2度と会えなくなちまうかもしれねぜ。

このセリフは、些細なことで言い争いをする友人2人をなだめる、という文脈で使われたものだ。後先考えずにその場の感情だけで強い言葉を使って、不用意に他人を傷つけてしまうこともあるんだよ、という忠告である。

確かにそうだ。言葉はコミュニケーションの道具、つまりは記号だが、記号の中でも意味があり、強弱がある。使い方を間違えぬよう注視しなければならないだろう。

しかし、当たり前だが全ての言葉が刃物であるわけではないし、一度口に出したとしても撤回したり変更する努力を重ねることもできる。傷ついたり傷つけたりすることを恐れ、すべての言葉を封じ込めて口をつぐんでしまったら、あなたの思考はどこへ行くというのか? あなたという存在は、どこにいるというのか?