Heavy Duty

一緒に考えましょう。

今の仕事を続けるべきか辞めるべきか悩む人へ

私は3回転職しています。転職の回数はただの数字で何の意味もないと思っています。

ただ、最初の転職をするとき、正直言ってかなり悩みました。なぜなら、周りにいるのはその会社の人(その会社で仕事を続けることを選んでいる人)だけだったからです。

今の私がその時の私に声をかけられるとしたらどうするだろう、と少し考えてみようと思います。そしてこの記事が、誰かのなにかの役に立つことができれば嬉しいです。

 

小さく始める

安定した収入を得ることは、社会で生きていく上で基盤になってくれる。なにがあっても会社で働きさえすれば収入を得られるということは、当たり前のようでいてかなりありがたい話だ。

ただし、労働というのは基本的につらいことを引き受けるからこそ対価を得られるものであり、その仕事が自分にとって楽しいものであるかどうかはわからない。仕事の内容がつまらない、職場の人間関係が悪いなど、人間である以上合う合わないがあるのは当然であるし、それが本人のQOLを著しく下げてしまう場合があることも否めない事実だ。

ただ、いざ仕事を辞めて次の仕事を探すとなると、かなりの行動力が必要となる。まずは同僚や上司に話を通さなければならないし、取引先にも伝え、退職日を決めることができたのち、やっと次の就職先を探す活動ができる。これらを並行して進めることもできるけれども、そこまでの時間と労力を割くことは普通の会社員には難しい。

そしてそのようなステップを踏み、活動を続けたとして、無事に次の就職先がすぐに見つかるとも限らない。失業手当もあるけれども、必ずしも十分な金額ではない。これは貯蓄がない場合にはかなり厳しい。

ではどうすればいいか。選択肢の一つとして提示したいのが、まず小さくやってみるということだ。

転職求人サービスに登録するだけでもいい。次の職場を少し検索するだけでもいい。あるいは身に着けたいスキルがあるのなら、そのスキルの身に着け方を調べるだけでも十分だ。

こうしてなにか始めるということは、例えそれが小さなことだったとしても自分の気持ちを前向きにしてくれる。今の仕事が辛い、辞めたい……ということばかり考えていた頭の中に、あれもしようこれもしようという別の思考が生まれてくる。

この、別の思考が生まれるということが大事だ。人間はひとつのことばかり考えているとどうしても思い詰めてしまうし、正常な判断ができなくなる場合もある。このようなことを防ぎ、冷静な頭で続けるべきかどうかの判断をするため、なんでもいいから小さく始めることをおすすめする。

 

「続けること」や「アウトプット」自体に価値はない

では冷静に考えた結果、転職するという結論になったとしよう。まずは周りの人間に説明して筋を通さなければならない(この場合、筋を通さなければいけない対象はあくまで「人間」であって、侮辱や人格否定をしてくるような存在は「人間」ではないので対象に含める必要はない)。

ただ、必ずしも相手の理解を得る必要はない。同調圧力の強いここ日本において、転職という選択に理解を示してくれる人は少ないかもしれない。そもそもがその会社で働き続けていることを選んでいる人なのだ、自分と他人は関係ないという思考をきちんと持っていないと、転職の肯定を自分への否定に結びついてしまうこともあるかもしれない。

そんなときはあなた自身も自分と他人は違うということを思い出し、相手の意見を尊重するようにしよう。相手の意見を尊重することと、相手の意見に従うことは必ずしもイコールではない。このことを忘れてはならない。

そしてどうしても出てきがちな引き留め文句が「もう少し続けてみたら」という言葉だ。根拠があるならまだいいが、この言葉に根拠があることは少ない(むしろ引き留める論理があるならこのような言い方はしない)

結論から述べるが、続けることそれ自体に価値はない。

考えてみてほしい。いくら「1足す1は2」という計算を百万回、1億回繰り返したとして、なにか得られるものがあるだろうか? そうではなくて、「1足す1は2になる」という論理を自分のものにし、この論理を発展させることができないか、あるいはこれを利用して別のことをできないかなど、成長したり思考したりすること自体に意味があるのであって、なにかを継続するだけではなにも得られない。

音楽や漫画などの世界でも、私はその作品自体の価値に比べて、その作品を生み出せるに至った作者の思考や成長過程そのものの価値の方が、何倍も高いと考えている。この文脈で語るアウトップットはもはやゴミであり、出来上がって作者の手から離れた瞬間にその価値を失うのだ。

しかし、そのアウトプットを経た作者はもう以前の作者ではない。アウトプットのためのノウハウを自分のものにし、それを使って新たな価値を生み出すことができる。

このことから、その仕事を続けてまだ得られるものがあるなら「もう少し続けてみる」のもアリだが、そうでないなら早めに見切りをつけた方がよい。

 

やってみるしかない

そうして会社を辞めたとしよう。さて次はどうするか。

ここから先は、残念ながらアドバイスできることはひとつしかない。それはトライ&エラー、試行と失敗を繰り返して自分にとっての答えを探すことだ。

答えはすぐに見つかるものではない。それどころか答えが見つからないことも、探している答え自体が間違っていることもあるかもしれない。

これは自分で経験して自分のものにしなければ、本当の答えにはたどり着けない。

ただ私は言いたい。

「自分で自分を決める世界」にようこそ、と。

小学生でもわかるように税金の種類を紹介します。

大人たちが口にする「税金」という言葉。

よく耳にする割には学校では詳しく教えてもらえないし、なにやら大人たちは嫌がっているように見えますね。

なぜ学校では詳しく教えられないのか、なぜ嫌がっているのか、そして身近な税金について紹介していこうと思います。

 

一番身近なのは消費税

日本には憲法というものがあり、その中には基本的な義務が定められている。それは義務教育を受けること、働くこと、納税することの3つである。

義務教育を受けるのは生き方を身に着けるため、働くのは助け合いで成り立つこの社会を維持するため、そして納税するのは社会の維持のためのお金をみんなで負担するため、というのがそれぞれの目的である。そして納税とはどうやるのかといえば、端的に言ってお金を国に納めることで行う。

国に納めるやり方はいろいろあるけれども、直接国に納めている人は少ない。というのも、1億人を超える人が暮らす社会でひとりずつ集めていると管理(納めていない人に催促したり、納め過ぎた人に返したり)が大変なため、税金は主に「会社」に集められ、その「会社」がまとめて納めることになる。

その中でも一番身近なのは消費税で、最近10%に引き上げられたことが記憶に新しい。この消費税は間接税の代表格で、「モノやサービスを消費したとき」に集められる税金だから消費税という(本来は消費したその人が納税義務者ではないので、この消費税という呼び方はまやかしなのだが、その話は別の機会に譲ることにする)。

この消費税は個人が買い物をしたときに「会社」が集め、この「会社」が個人の代わりに国に納めることになる(ここに先程のまやかしのカラクリがあるのだが……)。つまり私たち個人は、買い物をすればするほど消費税を集められ、納税していることになる。

所得税や住民税といった直接税は、個人の「儲け」を計算の基礎にして税金を計算するが、消費税は個人の「消費」をもとにする。このためどんなに「儲け」が出ていないような人でも、日々の生活に買い物は欠かせないので、「消費」によってある程度の納税を必ずしていることになる。

 

次に身近なのは所得税と住民税

大人は、そのような「消費」をする一方、働くことを通じて給与を受け取る。この給与は働いて得た「儲け」なので、この「儲け」については所得税と住民税を納めなければならない。

同じ「儲け」について2種類の税金を納めなければならないのは不思議に感じるかもしれないが、この2種類の税金は納税する相手が違う。所得税は国、住民税は住んでいる都道府県と市区町村だ。

なぜわざわざ分けるのかというと、私にも意味が分からない。使う目的が違うとはいえ、それは初めから1か所に集めて後から分配すればいいだけなのだから合理性がないし(実際消費税は国の分も地方公共団体の分もまとめて会社が国に納付する)、役所にいる地方公務員の雇用を維持するためだけの無駄な仕事だと思う。

少し話がそれたが、とにかくこの所得税と住民税は働くことで得る「儲け」について計算される、ということを覚えておいてほしい。普通に働けば儲けが出るので(働いたのに儲けが出ない=赤字になるということは損をしているので、普通は損してまで働かないのである)、この所得税と住民税は、国(地方公共団体)にとって消費税に次いで安定的な財源である。

ではこれはどうやって集められているのだろうか。答えは受け取る給与からあらかじめ引かれているのである(これを源泉徴収という)。

給与というのは会社から個人へ支払われるので、これをあらかじめ引いておくのは会社だ。つまり会社が個人の税金を預かる(集める)ことになる。この預かった税金について、会社は毎月きちんと集計して国に納付をしている。

この仕組みが回り続ければ、個人はとりあえず働いて給与を受け取るだけで自動的に納税することになる。会社の負担が大きいということを除けば、働いている人が考える必要のない、よくできたシステムだとは思う。

ちなみに、ユーチューバーや芸能人など、決まった会社で働いていないひとは、「儲け」と「税金」を自分で計算して納めなければならない。この手続きを確定申告という。

 

税金について学ぶ必要がある理由

こうして消費税、所得税、住民税は国(地方公共団体)に納付され、私たちの社会を維持するために使われる。この社会を支えているのは、私たちひとりひとりが少しずつ出し合った税金なのである。

他にも会社が「儲け」について納税する法人税、亡くなった人から財産を引き継いだ「儲け」について納税する相続税、家や土地を「所有」していることについての固定資産税など、税金の種類は幅広い。気になったら調べてみることをお勧めする。世の中の仕組みが少しわかるだろう。

そしてここで、冒頭に述べたことについて考えてみる。つまりなぜこのことを学校で詳しく教わらないのか、大人が税金を嫌がるのかということだ。

学校で詳しく教わらないのは、今まで書いてきたように普通に生活していれば自動的に納税されるからだ。また、大人が税金を嫌がるのは、教わる機会が少ないというのもあるし、本来は税金がこの社会の維持のために使われており自分もその恩恵を受けているというのに(権利)、納税によってその仕組みを支えなければならない(義務)という、基本的な権利と義務の関係について、正しく理解していないからだ。

ただ、自動的に納税される仕組みになっているということは、きちんと調べなければ知る機会がないということだ。これは良い悪いではなく、どうしても仕組み上そうなってしまっているので、自分がいま生きている社会の姿を正しく理解するために、税金の知識は身に着けておくことをおすすめする。そうして知識を得ることによってはじめて、国民としての正しい立場に立つことができ、政治家が税金をどう使うかについて対等に意見を述べることができるのである。

ステーブルコインの「何がすごいのか」について解説します

お金の安心なところってどんなところだと思いますか?

誰に対しても使える? 持ち運びができる? 確かにその点も便利だと思います。けれど最も良いところは、その価値が変わらないところです。

法定通貨は、国内であればよほどのことがない限り空間的、時間的にその価値が変動することはありません。この点が、お金というものが根強く世界を支配している理由です。

しかしながら、近年知名度を増してきているビットコインなどに代表される仮想通貨はどうでしょうか?

 

仮想通貨って危ないよね

仮想通貨と切っても切れない関係にあるのが、ブロックチェーンである。ブロックチェーンとは、その名のとおり全ての関係者が鎖でつながれている状態であり、なにか動きがあればわかるようになっている。

想像してみてほしい。10人の人間がピンと張られた鎖で繋がれているとする。この鎖は鋼鉄製で伸び縮みはしなさそうだし、切断することも困難だ。

このとき、誰かひとりが前後左右どちらかへ動いたらどうなるか? 答えは自明、鎖で繋がれている全員がその方向に動く又は引っ張られることになる。つまり何らかの力がかかることになり、この鎖で繋がれた全体の中に何らかの動きがあったことがわかるのだ。

これがブロックチェーンである。プログラムによって相互監視の仕組みを担保し、不正ができない、誰が何をしたのか必ず記録が残る、という仕組みだ。もうお気づきだと思うが、この仕組みはお金と非常に相性がいい。

このブロックチェーンの技術が底支えすることによって、ビットコインなどの仮想通貨はその信頼性を担保されている。

ただ、未だに仮想通貨は危ないものであるという認識が根強い。それは新しいものに対する受け入れにくさのようなものが大部分であると思うが、加えてボラティリティが大きい、つまり昨日の10円が今日の100円に、そしてその逆もあり得るということだ。

ボラティリティ、つまり流動性が高いと何が困るのか? 仮想通貨を投資の対象、トレードの対象として見ているのなら特に問題はない。そうであるなら株式やほかの金融商品とかわらないからだ。

問題は、仮想通貨が通貨であること。通貨の主な役目とは何かというと、決済である。昨日ジュースを買うのに使ったビットコインが、今日いくらの価値になるのかわからなければ、それを決済に使う人間はいないだろう。昨日ジュースを買えたのと同じ通貨で、今日も同じジュースを買えることが大切なのだ。

 

あなたが国家に等しくなる

この流動性の問題があるため、仮想通貨は決済に使いづらい。この弱点を克服するためにはどうすればいいか。非上場にして閉じた世界で運用するか? それでは一部のコミュニティでしか使用されない。ではどうするか?

答えは簡単、流動性が高すぎるなら、流動性が低い資産に紐づければよい。この考え方に根差しているのがステーブルコインだ。

例えば1円あたり1仮想通貨円のステーブルコイン<SYEN>のようなものがあったとしよう。従来の仮想通貨であれば、流動性が高すぎるため決済に使うことは難しかった。

しかしこのステーブルコイン<SYEN>は、上述のとおり1円あたり1仮想通貨円だと決まっている。これは、ほとんど円を持っているのと同じ状態になる。どうしてそんなことができるかといえば、それは各自で勉強してみてほしい(例えば私が1円を持ち、あなたに1SYENを発行し、その1SYENをいつでも1円と交換してあげるよ、というような状況だ)。

これのなにが画期的なのかといえば、ついに通貨がブロックチェーンによって信頼性を担保されるという点だ。ブロックチェーンの実態はプログラムなので、開発やチェックのコストが低い。

そしてプログラムは簡単に複製ができる、つまりは○○銀行のプログラムをコピーしてきて、私が個人銀行を開設できるようになるのだ。

個人が銀行になることができれば、お金を発行することができる。お金を発行できるのは、これまでは国家しかなかった。それが個人の手に届くことになる。

もちろんそのような個人銀行が乱立すれば混乱するだろう。支払はかならず○○コインで、なんて常識も発生するかもしれない。

しかし、この○○コインでと言われるようになるまで大衆から支持を得ることができればどうなるか。個人主義である現代では、この支持を得るために必要なのは本人の取り組みだけである。

これはまさに、あなたが国家になることと等しい。

 

テクノロジーが飛び越える全て

これまでの時代は、なにをするにも物質が必要だった。銀行や会社を始めるには資本が必要であったし、ものづくりにも巨大な工場が必要である。そしてこれらは容易に複製できない。株券を単純にコピーしても価値を持たないし、工場をいくつも作るのには時間がかかった。

しかしテクノロジーが進化し、これらの参入障壁を次々と破壊している。会社に所属せず、個人で生きている人が増えてきたのもこのためだ。数世代前には個人の力ではどうしようもなかったものが、今ではいくらでもなんでもできる。

テクノロジーは時間を短縮し、仕組みを複製可能にし、そして全てのものを最適化していく。

近い将来、その最適化の対象に人間も含まれることになるかもしれない。

自分を知りたいなら、アウトプットを続けてみては?

ブログの毎日更新に取り組み続けて、10日以上過ぎました。正直言ってネタ切れです。

ただ、書くことを続け、それによって生まれたネタがあります。入れ子構造でなんだか不思議ですが……。 

 

あなたは何者ですか?

自分とはいったい何者なのか。古今東西の様々な人が悩み取り組み続けてきた普遍的な問題である。なにが好きで、何が嫌いで、そして、どこからきてどこへ行くのか。

今、なんのために何をしているのか。あるいは、好きなものを突き詰めるために、どうしたいのか、どうすべきなのか。あまりにも選択肢が広いばかりに、逆にどうすればいいのかわからなくなる。

 

書くことで見えてきたもの

私は考えることが好きだ。これは間違いない。四六時中なにか考えているし、新しいテーマを見つけるとついそちらへ意識が向いてしまう。

普段考えていることについてアウトプットすることは少なく、せいぜい身近な人へ話をする程度なのだが、ただ私が興味を持つテーマについて、同じように興味を持つようなひとは身近にいない。

多くの人が好きなのは、有名人の一挙手一投足や、凶悪犯罪や、政治の揚げ足取りといったテーマだ。一方私はというと、そのような一過性のテーマにはあまり興味がなく、考えるとはどういうことなのか、人が人を評価するのはどういうことなのか、あるいは政治の成功例や失敗例から学べることはなんなのかといった普遍的なテーマに興味がある。

これは抽象的な概念であるので、あまり現実味がなく、端的に言って面白さがわかりにくい。きっと考えること自体が好きでないと、取り組みたいと思わないだろう。だからこそ私は身近な人と自分の思考について共有できないし、身近な人の思考を共有することに対して消極的である。

そんな私だが、考えることと同様、長く取り組んでいるテーマがもうひとつあり、それが税理士試験だ。税理士試験は範囲が広く、長丁場になりやすい。このため継続することがなによりも大切なのだが、私にとってこれがどうも難しい。継続できたという強烈な経験に基づく自信が不足しているためであると思う。

自分はこれを続けられている、と誇れる自分になりたくて、このブログを毎日更新することに決めた。毎日更新するとなると、容易ではない。最初の頃はよかった。書きたいことがある程度あるし、考えることも文章を書くことも好きだから、あまり苦痛ではない。

ただ、毎日続けるとなるとどうしてもネタ切れするようになる。時事ネタを取り扱うことができればいいのだが、前述のとおりそもそもそういう対象に興味が薄い上、家にテレビがなくメディアに触れる機会も少ない。そうなると自分の頭の中から捻りだすことになるのだが、これが意外にも面白い。

ウンウン唸って捻りだしたテーマというのは、普段あまり考えていないもの、つまりは自分とかかわりが少ないテーマになる。けれども、そのことについて無理やり考えて文章を考えていると、なるほど自分はこう考えるのだな、という気づきが得られる。

自分のことは自分が一番わかっていると思いがちだが、当たり前だが自分を自分で直接見ることはできない。人格の内部に外部を作ることは至難の業なので、自分を観測するということほど難しいことはない。

しかし、この無理やり考えるということを続けていくと、少しずつだが客観的に自分を見ることができるようになる。そもそも文章として出力すること自体が客観化なので、その効果もあるだろう。

いずれにしても、こう考えるのだなという気づきや、確かにそうだなという同意、そしてこれはできていないなという自分への戒めも持つことができる。例えば先日努力についての記事を書いたのだが、この中で私は目標と現在との差分を測定し、それを評価た上で軌道修正しなければならない旨を書いている。

これは考えてみれば当たり前のことだし、実際税理士試験を含む資格試験の勉強法について検索すると、同様の趣旨のことが頻繁に書いてある。

ただ私は、これが自分の中から出てきたということに価値があると思っている。

自分の中から出てきたということは、その思考が自分にあるということであり、更に言えば取り組むことができるということである。インプットで内側に入ってきた考え方よりも、このことは何倍もの価値があると思う。

 

継続することで得られるもの

正直言って、書くことはそれなりに時間がかかるし、そもそも税理士試験に取り組んでいるのだから余計なことに時間を使うべきではないかもしれない、と考え始めていた。続けることで自分に自信を持てるとは考えていたが、それと時間を天秤にかけたとき、どちらが重いだろうかという風に。

けれども続けてみると、意外な発見があった。自分を対象として学ぶことができるということである。

分人という考え方がある。現代に生きる人は学校、職場、家庭、趣味仲間、ネットなど様々なコミュニティに属している。これらそれぞれにおける人格は必ずしも統合されず、それぞれに最適化された人格が形成されていくというものだ。

私にとってこのブログは、その分人のひとりになるのかもしれない。

大人になるためのたった1つの方法

私も今週のお題に便乗して、「大人になったなと感じるとき」について書いてみようと思う。

先程はてなブログの該当ページを確認したのだが、11万件を超える記事があるようだった。数が多いということもそうだが、これだけの数の人が自分自身を発信しているということが嬉しかった(そういえば、数というのは最も優れた記号化の概念ですね)。

もう私たちは、ただの消費者ではない。

 

子供or大人という規定

大人といえば、自分の責任で行動できるものというイメージが強い。子供とよく対比されるが、この子供というのはどこまでいっても守られる側である。

衣食住は問題なくすべて与えられるし、お金もお小遣いとして与えられる。ある程度事理弁識能力が備わってくればアルバイトをして働くこともできるが、未成年の場合は基本的に1人前とは認識されない。

この、子供は守る対象であるという認識というのか決めつけは強力で、日本人に根強く残っている価値観のひとつであると思う。この点については、外部から規定されれば本人もそのような自己認識になってしまうため、私はあまりいい傾向であるとは思わない。本人ができると考えるなら任せるべきであるし、失敗したならフォローの仕方を学ばせるべきであると思う。

少し話がそれたが、とにかく大人というのは子供の対極にある。子供とは違い全てを自分でできなければならないが、その代わり様々な自由が与えられていて、ひとりの人間として尊重されることが社会的に約束されている。

そして私は、自分が大人であるかと問われれば「大人です」と答えるだろう。そしてそうなったのがいつだったのかといえば、20歳になったときだと答える(近年18歳に変わりましたね)。

当たり前の話だが、日本人は成年年齢に達すると事理弁識能力を備えた成人とみなされる。「大人になったと思うのはいつですか?」という問いについては、きっとこのような答えがシャレていて多くの支持を集めるのに違いない。

 

大人という記号の価値

大人であるということは、ひとりの人間として尊重しなければならないのと同時に、その人との間になんらかの関係性がある場合、きっと責任を果たしてくれるであろうという期待をしていいことになる。

これが大人という記号の価値である。子供相手ではそうはいかない。もしなにかあっても、それは相手のせいにできないのである。

人間は社会で生きている以上、この社会の機能を利用して自らの人生を維持していく。このとき、社会機能の維持管理を行うのはやはり人間であるから、ここで大人の出番というわけである。

この社会機能というのは、なにも行政だけに留まらない。生活の維持に必要なあらゆる機能……町の個人商店からショッピングモールまで、全てのものを含む。

これらの中に大人が組み込まれているからこそ、私たちは安心して社会活動を営むことができるし、そして私たち自身も社会の一部として機能する責任を負う。

すなわち大人になりひとりの人間として尊重される立場になるということは、社会の維持機能に組み込まれるということを意味する。

 

自分で自分を定義できる能力

この、ただ社会機能に組み込まれるだけである生き方について、虚しさを感じる人も多い。昔ならこれら働くことが社会貢献でありトウトイことであるという価値観が基本になっていたが、現代ではカロウシや社畜などという言葉が生まれたように、働くことへのマイナスイメージが強いためである。

こうなると大人になりたいと考える子供が増えるわけがない。社会の大人たちはみな、苦しそうに生きているからだ、まったく楽しそうではないからだ。

ただ、このような外的な価値観に支配されたままでは、いつまでたっても自分を変えることができない。価値観や思い込みは呪いと同じで、自分を守ってくれるおまじない(ノロイとマジナイは漢字で書くと同一なので、同一のものという認識ですが、合ってますか?)であるかのような顔をしているが、その実当人を無限に縛り続ける。

これを突破するためには、そのような価値観や思い込みという呪いを自分で解き、新たなお呪いを自分に施す必要がある。そのお呪いの内容はなんでもいい。生きづらさを抱えているなら、その生きづらさを一変してくれるようなものだといいかもしれない。

そうして自分自身を塗り替えていくことができれば、それはすなわち自分を変えること、新しい自分に出会うことを意味する。自分探しなどと言って旅をしたり、様々な経験をすることだけが、新しい自分と出会う方法ではない。もちろん環境を変えることはそれ自体が気づきのきっかけになるので、そのアプローチを否定するというわけでは全くない。

ただ、外側に自分を探そうとしなくても、いつもあなたは内側に存在しているのですよ、ということを伝えたい。新しい自分というのは、いつどこにいたとしても、この内側の中に見つけることができる。

こうして自分で自分を決めることができれば、例え成年年齢に達していなくても大人になることができる。この場合、他人が自分をどう認識するかは問題ではない。大切なのは、自分が自分をどう認識するかなのである。

このように、自分を自分で定義できる能力こそが大人に必要な力であり、これを身に着けることこそが大人になるということなのではないかと私は思う。それができるようになったのが最近だということは、この際棚上げにしておくとしても。

日本人はなぜ努力を美しいと思うのか。

言霊という価値観による思考パターン

言葉には力が宿っていると考えられていた。言霊信仰である。言葉を口にした瞬間、その言葉はこの世界に存在することになり(言霊)、その言霊がこの世界になんらかの影響を及ぼすという考え方である。

そのような考え方が前提にあると、他人の欠点を指摘する言葉、リスクを予見する言葉を使うとそれらがこの世界に存在することになる、つまり他人には欠点が存在する、この世界にはリスクが存在するということになる。欠点やリスクが存在するのは当たり前なのだが、なるべくならそのようなものが存在しない方が望ましい。

だからこそ日本人はそのような言葉を口にしなくなった。口にしなくなった結果として、他者の心情や思考を察する文化が自然に生まれ、定着した。

これは、悪だっただろうか? 善だっただろうか? いや、評価には意味がない。

結果として今の日本人は、本当に考えていることを口にしなくなった。それが他者の欠点に関してのことだけであればよかったのだが、予想されるリスクや、目標や目的までも口にしなくなった。

目標や目的を口にしない、定めないということは、どこへ向かっているのかわからない。そしてどこへ向かっているのかわからなければ、自分が今いる場所と目標との差分を測定できない。すなわち努力や取り組みの結果を評価できなくなってしまう。

評価できなければ、改善できない。改善できなければ、そもそも努力している意味がない。なぜなら努力は目標を達成するための取り組みだからだ。

そのように目標がわからない、現実を言葉にしないという態度のままでは、自分が今どこにいるかもわからない。加えてリスクがわからなければ、リスクに備えることもできない。

 

思考パターンが生む価値観

このように、目標を口にせず、努力をきちんと評価できない状況では、毎日を生きている意味がない。そのような状況から逃れるには、今を肯定すること、すなわち例え結果に結びつかない無駄な努力であったとしても、努力すること自体が美であるという価値観にとらわれることになる。

世の中に価値のないものは数多くあるが、目標とする結果に結びつかない努力ほど無駄なものはない。しかし日本人の多くは(例え無駄であっても)努力自体に対する信仰があつく、自身の現状を客観的に評価できていない場合が圧倒的に多い。

義務教育を受けるのは生き方を学ぶためであり、大学で学ぶのは知的好奇心に取り組むことを学ぶためであり、働くことは生活するためのお金を稼ぐため、あるいは社会貢献をするため、あるいは自己実現を追求するためである。ただ義務教育を受け、大学に行き、働いて金を稼げばよいというものではない。

近年、日本人もようやく多様化が進み、義務教育を受けない、大学に行かない、会社員にならないという選択をする人も増えてきた。これは当然ながら、別の手段で生きることを学べるなら義務教育なんて受けなくてもいいし、知的好奇心を学べるなら大学に行かなくてもいいし、お金を稼ぐことができるなら会社員になんてならずともいいという思考があってのことだと思う。これは目標と手段が一致している限り問題がない。

問題なのは、これら目標を定めてそこに向かって進んでいる人に対して、やれひきこもりは社会の荷物だの、ユーチューバーは何も生産していないだの、インフルエンサー虚業だのと否定ばかりする者たちだ。彼らは、ただ自分たちの通ってきたレールや努力から離れているという理由だけで、自分たちと異なる存在を攻撃している。この攻撃自体も目標がない。ただ感情に従った行動だ。

そんなものは人間ではない。思考しない動物、あるいは命令を実行する機械に過ぎない。人間は、思考を重ね、自らを変革していくからこそ人間なのである。

 

 一番見えにくいのは自分

自分自身、胸に手を当てて振り返ってみなければならない。

今まで同じやり方でやってきたという理由で、目の前の現実に思考停止していないか?

なにか行動を起こすとき、その目標と手段は正しくリンクしているか?

目標と現実のギャップを評価し、常に客観的な軌道修正を行っているか?

皆が黙っているからという理由で、自分も黙ってしまっていないか?

僕が大好きな名探偵コナンという作品の中に、このようなセリフがある。

一度口に出しちまった言葉はもう元には戻せねーんだぞ。 言葉は刃物なんだ。使い方を間違えると厄介な凶器になる。言葉のすれ違いで、一生の友達を失うこともあるんだ。一度すれ違ったら、2度と会えなくなちまうかもしれねぜ。

このセリフは、些細なことで言い争いをする友人2人をなだめる、という文脈で使われたものだ。後先考えずにその場の感情だけで強い言葉を使って、不用意に他人を傷つけてしまうこともあるんだよ、という忠告である。

確かにそうだ。言葉はコミュニケーションの道具、つまりは記号だが、記号の中でも意味があり、強弱がある。使い方を間違えぬよう注視しなければならないだろう。

しかし、当たり前だが全ての言葉が刃物であるわけではないし、一度口に出したとしても撤回したり変更する努力を重ねることもできる。傷ついたり傷つけたりすることを恐れ、すべての言葉を封じ込めて口をつぐんでしまったら、あなたの思考はどこへ行くというのか? あなたという存在は、どこにいるというのか?

YouTubeの次にくるもの

近年、ユーチューバーという職業が誕生した。

本当は、この誕生という言葉は適切ではない。なぜならYouTubeへ動画投稿する人はずっと昔からいたからだ。これが徐々に注目を集め、職業として認知されるに至った。
物理的な存在以外は全て、相対的な存在である。ユーチューバーは、認知されることによって存在することとなった。
しかし存在するということは、いつかは消えるということだ。
 
YouTube以前
ずっと昔から庶民に受け入れられていた娯楽としては、本や絵がある。小説は昔から存在しているし、浮世絵などは世界的にも受け入れられた文化だ。
絵は写真へと進化し、活動写真すなわち動画へと進化した。一方本はあまり進化していないように思える。そういえば傘も進化していないもののひとつだ。
話が逸れてしまったが、要はこのようにコンテンツというのは普遍性があって、時代や文化に依存しない影響力がある。人間がなぜ物語を必要とするのか、絵を見て美しいと感じることがなぜ必要なのかは別の機会に考えることとして、ここではこれまでに流行したサービスあるいはプラットフォームが含有する普遍性を考えたい。
ラジオは戦前からあった。テレビもそうだ。それらは始め、決して一般的なものではなかったけれども、時間が経つにつれてどの家庭にもあるものになった。
やがてインターネットが一般化し、ブログというものの流行が始まった。これは個人的な本に近いものである。そしてmixiFacebookTwitterといったSNSも流行した。それらは基本的に文字によるコミュニケーションを前提としていたが、カメラが一般化することでInstagramが流行。これは個人的な絵の発信である。
そしてYouTube。カメラの一般化が進み、動画撮影機能の一般化も進んだ。そのことによって動画を撮影する人が増え、ユーチューバーが生まれるに至った。
 
YouTube以後
これらの振り返りから、人間の行動を駆動する原動力となるのは、以下のようなものだろう。
物語。美。知的好奇心。コミュニケーション(承認欲求を含む)。
YouTubeに触れるという行動は、これらのすべてを何らかの形で満たしている。個人の物語に触れることができ、美を感じることもできる。勉強系の動画では知的好奇心を追求することができるし、コメント欄ではコミュニケーションを深めることもできる。チャンネルというコミュニティで地位が確立されれば承認欲求も満たされる。
これは物凄いことである。振り返ってみればすべての点が繋がっていたということはあるけれども、サービスを作るうえでは先見性がなければ実行できない。
ただ、YouTubeのコンテンツは殆どの方向性が消費されつくし、正直言って飽きられている。芸能人が入ってきた時点で飽和するのは見えていたが、やはりテレビと同じでマンネリを迎える。
また、コンテンツを消費するために画面を注視しなければならないという点も大きい。これが時間的に拘束される原因となり、あまりよくない。ラジオが根強く生き残っているのは、これが作業と同時並行するのに適しているからである。
 
次は音声コンテンツか?
現代人は暇ではないが、その行動のほとんどは「楽しみ」ではなく「作業」である。この作業のお供にうってつけなのが音声コンテンツである。
これまではラジオだった。ただラジオはあくまで公共性をもつものであり、個人の趣味や嗜好とは必ずしも一致していなかった。それに加えてある一定のコンテンツの型があり、それも内容を狭める一因になっていた。
他方でPodcastというインターネットラジオもある。ただこれは、運営が大変な割に単体での収益化が難しく、流行の最先端であるとは言えない。
しかしながら、今後音声コンテンツが伸びると想定している者は多く、既にそのような内容の記事はネットにあふれている。そうであるならば、これをチャンスととらえ音声コンテンツ配信を行うプラットフォームを作る事業者が出てくるだろう。
というか。もう出てきている。Voicyなどがそうだ。これはYouTubeと同じように、再生数に比例した収益化を開始している。こうなれば一般人がコンテンツ作成に参加する障壁が低くなり、より一層この流れは加速するだろう。
テクノロジーの進化によってマイクも既に一般化している。これはもうはやらない理由がないだろう。
ただ、どのようなコンテンツがうけるのかはまだわからない。YouTubeの焼き回しをやろうとしても「~してみた」というコンテンツは映像メインのため作成しにくく、勉強系の内容も映像を用いない場合は言葉のみで説明することになり、そのためには技術が必要だ。
そのことを考えると生放送という一体感を創り出すもの、身の回りの出来事をツラツラと綴るブログのようなもの、あるいは即時的でないメッセージを介した緩いやりとりなど、いくらでも可能性はあるように思えるのだ。