Heavy Duty

一緒に考えましょう。

死刑と人権。

死刑について調べていた。

死刑といっても、死刑となる犯罪にはいくつか種類がある。強盗殺人や放火殺人が死刑なのはなんとなく腑に落ちるが、中には国家転覆を目論んだ行動も対象になっていたりとなかなか興味深い。

人間が人間を評価し、「死あるのみ」と判定する行為そのものについて、少し考えてみたい。

 

死刑存廃についてどう思いますか?

私は死刑の代わりに、釈放や恩赦の対象とならない終身刑を最高刑とすればよいのではないかと考えている。死刑を肯定しない理由としては、誤審の場合に取り返しがつかないこと、裁判官や死刑執行までに関わる人間の精神的負担が重いこと、人が人の命を奪うことはどのような場合でも認めるべきでないこと(認めてしまうと人類にその選択肢があることになってしまう)があげられる。

一方、終身刑などを最高刑とする場合には、単純に費用が掛かることが問題だが、終身刑を最高刑とするデメリットと、死刑を最高刑とするデメリットを比較すると、明らかに死刑の方がデメリットが重いため、私はこの立場をとる。

ただ、この死刑の対象となる犯罪の選定は、現在の体制が作った相対的なものだということを忘れてはならない。形のない存在はいつだって相対的なのだ。

極端な例を挙げるとすれば、冒頭の国家転覆罪について考えてみてほしい。オウム真理教などがそうだ。

このオウム真理教の指導者たちは、少数派だったからあるいは国家転覆に失敗したから、処罰の対象となった。これがもし、国家転覆に成功していたら……当然ながら処罰されない

なぜなら法律とは、その場所を治めるトップが決めるものだからだ。トップが変われば法律も変わる。勝てば官軍、負ければ賊軍なのである。そう考えると民主主義はいかにも危ない。危険思想が多数を取れば危険国家が誕生してしまうからだ。

 

死刑と人権

死刑は重大な人権侵害だという考え方もある。これは、人間はみな生きるという最も基本的な人権を有しているのであり、死刑はこの権利を奪う行為である、という批判である。

私はこのことについて、疑問を感じている。というのもこの論理は、少し思考が性急ではないかと思うためである。

まず前提として、人権というのは読んで字のごとく人間が持つ権利のことであるが、人間は元来社会的な生き物なので、人間とは社会で生きるものであるという前提を考えるべきであると思う。

そう考えたときに、社会で生きるとはどういうことかを考えると、社会に迷惑や悪影響を与えるような行為は社会にとって悪であるので、その人間はもはや社会で生きることそのものを否定している。社会のルールを守らなくなったとき、その人間は社会の外で生きる人間となり、そのような動物同然、すなわち人間とはみなされない。

このように、人間として生まれただけでは、人間ではない。教育や思考によって、社会に適合しながら生きていくのが人間なのである。そのような生き方をして初めて、人権というものが与えられる。

人権は、人間同士がお互いを尊重するための考え方のひとつだ。そしてお互いを尊重するという前提のない人間が、自らの人権を主張するのは誤りである。自分の手で動物を殺し、その血で濡れた手で別の動物を愛でるような矛盾行為そのものだ。

このことから、犯罪者=社会に害を与える人間には人権を主張する権利がないと言える。ただし、だからといって人権のない犯罪者にならなにをしてもいいかと言えばそうではない。そんなことをしたらそれこそ犯罪者の仲間入りだ。

 

社会の限界

この世界はひとつである。ひとつの世界に、ひとつの社会。すなわちこの社会は、すべてを包括して受容しなければならない責めを負っている。

しかしながら、人間は画一的な存在ではなく揺らぎがあるため、どうしても人間そのものを否定するような人間も生まれてくる。これは仕方のないことだ。そのような突発的なジャンプが発生するからこそ命は進化し、繁栄してきた。

ただ、人間に危害を加える人間を社会が許容することは難しい。飛行機が道路を走らないように、地下鉄を人間が歩かないように、能力や機能の異なる存在はレイヤーを分けて管理しなければ重大な事故が起きてしまう。ここに社会の限界、もっと言えば社会がひとつであることの限界がある。

人間が人間に対し、「死」や「無期限の拘束」を判定するのは非常に負担が重いことだ。ただそれが、例えば昔で言う島流しのように、もう戻っては来れない世界へ追放するが、別に死ぬわけではない、もしかするとその世界で楽しくやっていけるかもしれない、という判定であれば、いくらかましであろう。

昔は普通の人が普通に生きているだけの世界だった。それが近年では多様性を尊重するようになり、その多様性を互いに受容することが美徳であるという価値観が広がっている。そしてその考え方を拡大解釈し、犯罪者や無法者、ただただ破壊的行為を行う人間をも受容しなければならないかのごとく主張する者もいる。

多様性を受容するには、前提として互いの存在を尊重しなければならない。それができないであればもはや、レイヤーを分けて完全に遮断するしかないのではないだろうか。

格差社会はなぜ起こるのか。

格差社会という言葉に慣れ親しんで、もうずいぶんになる。

所得が低いのも、学歴が低いのも、コロナで働き口がなくなるのも、年取って働き口がなくなるのも、すべて格差社会のせいにされている。きっと格差社会さんは涙目だろう。

好きで生まれてきたのではないし、好きで長く生き続けているわけでもない。それなのにお前のせいだと揶揄され、罵倒されて、目の敵にされてきた。中には格差是正などと言って殴りかかってくる輩すらいる。かわいそう。

今回はちょっとしたきっかけで格差社会について考えたことがあったので、少し解説していく。

 

あなたはディスタンクシオンを知っているか?

ディス……え? 聞きなれない言葉に戸惑ったかもしれない。

先日ふと書店によった際、NHKテキストの100分で名著のコーナーが目に入った。このシリーズは重厚な思考を比較的安価に提供してくれるので好きなのだが、その中にこの本があった。なにやら「自分が好きで選んだ趣味さえも、実は選ばされたものである」とある。そうであるなら、私が今この本を手に取ったのも偶然ではなく必然なのだろうか、などと思いつつ購入してみたのがきっかけだった。

要約すると、主に次のようなことだった。

人は生まれ育った環境を身体的に記憶し、あらゆる行動はその記憶によって決定づけられる。育った家庭環境によって学校環境が異なり、過ごしてきた学校環境によって社会環境が異なる。そして社会環境が異なれば、おのずと所得も異なるということだろう。

例えば音楽の話で言うなら、クラシックが好きな集団とロックが好きな集団がいるとする。クラシック集団はいかにもインテリといった風情で、日常的に古典的な音楽に触れ、美術館や図書館に足を運ぶなど芸術的・文化的な活動を大切にする。一方ロック集団はというと、日々を激情の中で過ごし、そのような仲間同士で集まることによってより一層の喧噪や混沌を求める。そのような様子をクラシック集団は眉をひそめて噂し、一方のロック集団もクラシック集団についていけ好かない奴らだと揶揄する。

このように、クラシックだとかロックだとかいう「立場」は、音楽という「世界」の中でお互いを攻撃しあい、たえず闘争の中にあるのだという。というのもそれぞれの「立場」はまた別の「立場」と自身を比較し、そのことによって自分自身を再定義することで成り立つ、つまりは相対的な存在だからだ。

けれども私は、この闘争という言葉は表現が強すぎるのではないかと感じた。なぜなら闘争とは、相手と勝ち負けの世界で争うことをさし、それは必ず相手を否定する手順を踏むからだ。確かに「立場」はまた別の「立場」との間で相対的に存在するものだが、両者の隔たりが必ずしも否定であるとは限らないと思うのだ。つまりは受容、あるいは共存という考え方もあり得るのではないだろうか。そう考えると闘争というよりは隣人というべきだろう。

 

全ては生まれたときから決まっている

ともあれ環境がその人の行動に影響を与えることは間違いなさそうだ。勉強に取り組む姿勢を良しとする家庭に生まれれば、学校に入っても自然と自ら学ぶだろうし、そういった「立場」の友達同士で集まるようにもなるから、その姿勢はますます強まっていく。しかしここに隠れた前提がある。それは、家庭環境の状況は経済状況にもろに影響を受けるということだ。

当たり前だが所得が低く長時間労働を強いられているような両親のもとに生まれれば、両親は労働にほとんどの時間を費やすため、子供と一緒に豊かな時間を過ごすような時間がない。加えて、家庭で勉強や芸術に取り組むためには、端的に言って金がいる。それは東大生の親の半数超が年収950万超であるというような統計からも明らかだろう。

さらに悪いことに、そのようにして身に着けた、あるいは身に着けてしまった姿勢は、自身を両親と同じような大人に育て上げ、生まれてくる我が子も同じように育てる。人間は遺伝子の運び手であるともいうが、このような人間の「立場」そのものも運び、再生産してしまうのである。

義務教育を施す学校は、本来はこのような格差をシャッフルするためにあるといわれる。いわく、人間を同じ環境において同じインプットを行うことで、環境による影響を排した成長を促すというものである。しかしここにも誤った前提があり、同じインプットでも受け取り方が違えば、例えば降ってくる雨を集めるのにガラスのコップしかもっていない人間と巨大な桶を持っている人間とでは同じ結果になるわけがない。このコップを持ち込むのか桶を持ち込むのかという部分の差が即ち家庭環境の差なのであり、むしろ桶を持っている人間を目の当たりにしてしまったら、自分はコップ程度の生き方しかできないと思い込んでしまうこともあるだろう。そもそも学校というのは、入る時点で名門校と普通校があるのだから、制度それ自体、「立場」のシャッフルという考え方と整合していない。

このような仕組みから、個人の「立場」は固定され再生産され、また同じくして所得つまり経済格差も固定され再生産されていくのである。これが格差社会の仕組みだ。

 

突破するためには

こうしてできあがった格差社会に生れ落ちてしまった私たちは、もう二度と他の世界へはいけないのだろうか? 再生産された私たちは、それぞれの両親と同じように決まった世界で生きていくしかないのだろうか?

私はここで、そんなことはないと言いたい。貧しい家の出の人が偉人になる話はいくらでもあるし、逆に没落した資産家の話も多く転がっている。目の前の現実を受け入れることも、今の自分を正しく認識することも大切ではあるが、私たち人間は思考によっていくらでも行動を変えていくことができる。

世の中のあたりまえのこと、広く受け入れられている考え方のひとつひとつを点検し、疑問をもって思考することができれば、たとえ少しずつでも良い方向へ変わっていける。それこそが人間が生きている証だと思うのだ。

どうしても合わない人。職場あるいは社会において。

社会の中には必ず異常者がいる。

この異常者を排斥することで全体の健常性を維持するというのが今の社会の方向性だが、問題なのは排斥されない程度の異常者に出くわしたときだ。

明らかな犯罪者であれば排斥される。明らかな精神異常者であれば隔離される。しかし、グループの輪を乱したり、部下に異常な物言いをする上司、人として賛同できない態度をとるクライアントなど、迷惑極まりない人間というのは枚挙に暇がない。

そのような異常者とかかわることになるかどうかは、運ゲーであるとしか言いようがないわけだが、なぜそのような状況になってしまうのか、そしてそのような状況に遭った(もはや災害に遭うも同然である)際にどうすればいいのか考えてみたい。

 

職場というガチャ同然の運ゲー

やっとの思いで筆記試験や面接試験を通過したとしても、その先にどうしても合わない人がいたときは目も当てられない。ただ単に不幸であるとしか言いようがない。それほどに、付き合う人が合うか/合わないかというのは本人の力ではどうしようもないことなのである。

この社会では自己主張することの自由が認められており、同時に社会的な生き物としての立場が責任として付きまとう。異常な人というのは、この自己主張という権利ばかりを主張し、他人に合わせるという義務を無視しがちである。本来なら自由と権利はコインの裏表であり、同時に存在する(片方のみが存在することはできない)のだが、もはや常軌を逸した価値観を持つ異常者にそのような道理は通用しない。

そんな人間が近くにいると、どうしても気になる。憂鬱になる。彼/彼女の一挙手一投足にイライラする自分に心底うんざりしながらも、しかしどうすることもできない。「どうしても合わない人との付き合い方」というワードで検索した人は数知れないだろう。現に私もその中の一人である。

職場でそのようなジョーカーを引いた場合は最悪である。基本的に逃げることができないからだ。同僚であれば四六時中一緒にいなければならないし、上司であれば意思決定をするたびにかかわらなければならない。あるいは取引先でそのような異常者に当たってしまう(もはや当選である)とこの世の終わりである。取引先の人間を雑に扱うわけにもいかないし、そもそも売り上げを運んでくる相手だからへりくだった態度を取らなければならない。出勤したくなくなるのも頷ける。

 

対処法なんてあるのか?

どうしても合わない人が近くにいることで精神的に疲弊し、どうにもならない状況になってしまったらどうすればいいのか。自分自身の現実の捉え方を変えたり、身近な人に相談してみたり、合わない人が遠くへ行くおまじないをしてみたり……私はすべて試してみたが、どうにも効果があるものはなかった(いや実はおまじないは少し効いた)。

ではどうすればいいのか? 答えは二択である。自分の望むガチャを引けなかったときどうするかを考えてみてほしい。きっと諦めて続けるか、リセットしてやり直すしかないだろう。

日本人は会社員という立場で働いている人が9割近くいるらしいけれども、そのような中でも上意下達の組織の中にいると、「その会社で働くかどうか」以外のことをひとつも選べないのである。なぜなら、雇われているということは即ちコピー機と同じだからである。

考えてみてほしい、こんなコピーはしたくないと文句を言うコピー機を買うだろうか? あるいはすぐに壊れる、インク(やる気)がなくなる、出力が遅い、白黒印刷しかできない(融通が利かない)コピー機が欲しいだろうか? そうして考えてみると、買われる者は買う者に合わせなければすぐに捨てられてしまう。代わりなど別のところからすぐに買ってこられるのだから。

だからこそ指示に従わなければならない。どんなに異常な人間だとしても、その人間と仕事しろと言われればしなければならないし、その人間に売り込んで来いと言われればそうせざるを得ない。それを拒否してしまったが最後、自分の居場所がそこからなくなるのだ。

 

普通の人が損をし、異常者が得をする現代

人間にいろいろな権利を認めた結果、その権利を過大に解釈し、他人に迷惑をかけてでも自分の利益を守ろうとする人がでてきた。そのような人は、他人になんと評価されても一向に気にすることなく、我が道を生き続けるので、資本主義という利益と効率が支配する世界で有用であることが多い。雇う人間は異常者を配置し、異常者は普通の人を傷つけ、利益を吸い上げていく。このような構造が出来上がってしまっている。

また、権利が認められているばかりに、どんなに異常な人間だとしても、簡単には社会から追放できなくなってしまった。法律を犯すなどの決定的な一線を超えない限りは、人権侵害になるような排斥を行うことはできない。村八分のようなことができればいいのだが、それも個人主義の現代では現実的ではない。

結果的に、一般的で普通で常識的でおとなしい人間ばかりが損をすることとなり、異常者がその異常性を振りかざしたまま時間は進み続ける。憎まれっ子世に憚る、である。

そんな中、私も異常者になるしかないと密かに決意したのは言うまでもない。無垢な羊のままでは、刈り取られるだけなのである。

2021年。新年の抱負(地味なことに取り組む)

2021年の抱負は率直に「地味なことに取り組む」である。

やりたいことは多くある。ブログを書くこともそうだし、勉強することも貯金することもそうである。しかしこれらに共通することがひとつある。それは一朝一夕の取り組みでは成し遂げられないこと、要するに継続が必要であることだ。

継続することにより得られるものはなんなのか。また、人はなぜ継続することが難しいのか思考してみたい。

 

1年の計は元旦にあり

年始ということで、多くの人がそれぞれに新年の抱負を考えていることと思う。現にこの時期というのは新年の抱負を述べるトウコウが増加するし、きっと検索順位の序列も高いことだろう。不思議なことであるが、西暦の数字が変更されることにより、数多くの人が過ぎ去った過去のことを過剰に昔のこととして追いやり、1月1日から始まる日々のことを、まるで真っ白な寝具であるかのように清々した、あるいは崇高なものであるかのように錯覚する、という現象が観測される。

ともあれ1年の計は元旦にありともいうように、目的を達成する目標に取り組む前に、まずは具体的かつ細分化した計画を練るということが大切であることは疑いようのない事実である。疑いようのない事実であるが、これを実行することがまず難しい。なぜならある程度の思考力が必要だし、そして計画したとおりに事が運ぶとも限らないため、計画の修正すら計画に組み込まなければならず、難解そのものであるからだ。

私の抱負はといえば「地味なことに取り組む」であり、はなはだ抽象的である。なんだそれはと非難されても仕方がない。そもそも目標であるのかすら疑問であるし、生きていくうえで当たり前だという声も聞こえてきそうだ。

しかし、私にはこれができない。これが足りない。だからこそ目標にしたのである。

 

具体的にはなにしたいの?

もっと具体化すれば達成したいことがいくつかある。税理士試験の法人税法消費税法に合格したいし、貯金を年間100万円増やしたいし、ブログの毎日更新に取り組みたい。しかしこれらの目標を達成するために必要なことはなんなのかを考えたとき、結局は当たり前のことを当たり前に実行し続ける力、つまり継続する力が必要なのだと思い至った。

私は継続することが苦手であるがゆえに何度も転職したし、税理士試験にもなかなか合格できない。その自覚があるからこそ、なぜ継続できないのかを考えた。その答えの可能性のひとつとして、続けられたという実績や自信が自分の中にないことが原因ではないかと考えたのだ。

つまりこうである。何事もそうであるが、自分にはできるというマインドというか考え方の基本があって初めて、その何事かを成し遂げることができるのではないだろうか。そのように、自分にはできると思えるためには(根拠のない自信を使うという手もなくはないが)まずは実績が必要だと思う。私にとって、この場合の何事かに該当するのが継続することであり、実績に該当するのが過去の経験である。

 

地味なことに取り組める能力

残念ながら私には、この「継続することができた」と強烈に認識できる程の過去の経験がない。経験がないからこそ、それを手に入れたい。手に入れるためにはどうすればよいか。それこそが地味なことに取り組むことなのである。

試験に合格するためには、コツコツと必要なインプット/アウトプットを継続しなければならない。これは地味な作業の連続であるし、すぐに結果が出るようなものでもない。だからこそ取り組む意味を見失いがちであるし、やる気なんてものに頼れば頼るほど実行が遠ざかってしまう。しかし、それでも目の前の作業の意味を問い続け、その先にある未来を思い描き続けることで取り組むことができれば、ひとつの自信になる。

目標とする金額を貯めるためには、現実的に考えて一気に増やすことはできないのだから、長い時間をかけて少しずつ貯めていくしかない。それもたった1回の余計な出費、あるいは想定しない事態によって崩れ落ちかねない。それでも諦めずに続けることができれば、それが結果として現れることになる。

ブログを毎日更新するためには、当たり前だが毎日ある程度の量の文章を書かねばならない。書きたいことがあるときはそれでいいが、書きたいことがない、つまりはネタがないときもなんとかして捻りださねばならない。そのような思考のクセがあれば、毎日のものの見方が変わるかもしれない。

このように、地味なことに取り組み続けることによって、要するに継続することによって、自分のパラメータが変化する、あるいはパラメータの数自体が増えるように思う。それは、新しい自分の発見であり、思考することが好きな私にとってはこの上ない喜びである。新しい自分といわないまでも新しい価値観を獲得することができれば、より広い範囲や方向性で思考することができる。その先には、別のなにかが待っているかもしれない。

少し遠視が過ぎるようにも感じるが、可能性を思考する場合においては自由なのだから、これくらいの大言壮語を吐いてもよいのではないかと思うのである。そしてこの大言壮語が、今年の自分自身をしっかりと苦しめてくれることを望んでやまない。

税金なんて他人ごとである

脱税や申告漏れにかかわる報道は、一定数継続的に存在している。

脱税とは、申告漏れとはなにか。それらが違法行為である理由は、あるいはそれら違法行為が行われてしまう理由はなにか。

こと税金のことに関して、日本人は他人事というか無頓着であると感じる。

 

この社会をみんなで支える

日本国民は、基本的に納税の義務がある。これは、日本はみんなのものであり、みんなで互いに助け合って生きていくべきであり、助け合って生きていくための仕組みを作ったり維持するためにお金が必要なので、そのために納税しましょうというものである。

個人に課される税金は累進課税なので、基本的には稼げば稼ぐほど納税しなければならない。しかしながら、住民税あわせて55%で頭打ちなので、戦時中の所得税95%なんて税率に比べればかわいいものである。

そのように個人の能力に応じた額のお金を国に納めてもらうことで、国は国民へサービスを提供することができる。中には生活保護者など、それぞれの事情で満足に収入を得ることができない人もいるから、そのような人を支えるために使われることもある。納税している側からすれば、どうして自分だけこんなに納めなければならないのかと思いがちであるが、実際に生活保護を受給している方々の多くはこの制度に感謝しているものと想像する。そのような想像ができれば少しは優しい気持ちになれるのではないだろうか。基本的に、働いている人はそれだけで誰かの支えになっているのである。

このように納税は国家を根幹の部分から支えているため、この方向性に反する行為は違法行為とされる。また、誰かの支えになるというとらえ方ができる人間は納税について後ろ向きになることはなく、どうしてこんな額をと考えてしまう人間は違法行為に及ぶのだろう。

 

複雑怪奇な仕組み

日本は資本主義なので、基本的に資本家は資本家のまま、労働者は労働者のまま存在し続ける。資本家にとって、労働者はものを考えずに利益を運んでくれさえすればいい存在なので、労働者が考えなくていい仕組みと、適度なアメを与えて飼いならしている。

具体的には、所得税は給与から天引きされるし、住民税も給与から天引きされるし、社会保険も給与から天引きされる。そして1年間頑張ったご褒美として年末調整があり、最近はふるさと納税なんてものも出てきた。年末調整で受け取る還付金は、その名の通り還付金なので本来は自分のものであるし、ふるさと納税は単純に住民税のとりっぱぐれを防止、あわよくば本来必要な額を超えて住民税を納付してもらおうという仕組みである。

私は、これらの仕組みを義務教育で教わった記憶がない。ということは、義務教育はもはや機能していないので、必要な情報は自分で探さなければならない。なんでもそうだが、黙っていても豊かになることはなく、情報を知らなければ損をする一方なのである。

日本人の中で、自分がどれだけ納税したのか把握しているのは全体の何%なのだろうか。そして社会保険をどれだけ払ったのかまで含めると、いったいどうなるのか。それだけ自分の状況を顧みずに働くことが、過去の日本人が積み上げてきた規範である。

 

正しく知る

私は、複雑怪奇な仕組みが悪であるとは思っていないし、また納税が素晴らしいものであるとも思っていない。それらは社会の中で、日本の中で、あるいは人間として生きていくなら受け入れなければならない前提であり、言葉を選ばずに言えば仕方のないことなのである。

ただ、その仕組みの中で生きるなら、自分がどのような役割を果たしているのか、あるいは仕組みに加わることでどのような未来に加担しているのか、正しく知る必要があると思っている。国会議員に税金泥棒などという前に、自分が納めた税額と国会議員の収入や仕事内容を知るべきだし、増税に反対する前に、過去の租税の歴史や現在の国家予算・決算を知るべきである。なにも知らずに、あるいは調べようともせずに、ただ自分の感情に従って否定したりわめき散らしたりするのでは、動物と同じだ。思考してこそ人間なのである。

ちなみに、最近になって国の財務書類なるものが作られているので、興味があってみてみたのだが、やはり日本全体としては債務超過となっている。しかもかなりの金額の資産があるように見えるが、それは道路などの売却できない資産(民営化するなら話は別だが)であるから、普通に考えて倒産していてもおかしくないレベルである。徳政令なんて言葉がちらついてしまう。

話を戻すが、正しい知識を有さない者は正しい議論に参加できないので、まずは正しい知識を身につけることがスタートラインだと思う。もう世間からは忘れ去られていると思うが、東京オリンピックのロゴ問題でデザイナーである佐野氏が袋叩きにあったが、あれは大衆が根拠なく模倣であると認識してしまい、その大きな動きが国家的な決定を覆すことになってしまった不幸な例だ。なぜ大衆は、政治家が根拠のない発言をすると袋叩きにするのにもかかわらず、自らは根拠のない発言を繰り返すのか。人のふり見て我が振りなおせ、である。

私にとっての税理士試験

ただ今絶賛取組中である。

2015年:全経上級受験。合格。税理士試験受験資格を得る。

2016年:簿記論、財務諸表論受験。合格なし。

2017年:簿記論、財務諸表論受験。合格なし。

2018年:簿記論、財務諸表論受験。財務諸表論合格。

2019年:簿記論受験。合格なし。

2020年:簿記論、法人税法受験。簿記論合格。

 

税理士試験を目指したきっかけ

2009年から2014年までの5年間、上場会社で働いていたのだが、当時の仕事内容は原子力発電所にかかわるものであり、東日本大震災の影響を受けて最後の1年間は激務だった。

いち発電所のいち現場作業員ではあったが、最後の1年間は本店で意思決定の末端を担う仕事をしていたのだが、それは仕事といってもAさんとBさんの意見の調整をするというものだった。どんなにきれいな言葉で取り繕おうとしても無理だった、どこまでいってもたくさんの個人的な不機嫌と不機嫌の間を調整することでしかなかった。

今の自分ならそういうこともある、の一言で片づけられるのだけれど、当時の私は若かったし、良くも悪くも潔癖だった。なんなら激務で少し精神を病んで、正常な状態ではなかったのかもしれない。

とにかくそんなこんなで辞めた。最後の方は予算管理や仕訳の整理などをかじっていたから、その延長線上にあった税理士を目指すことにして、まあ辞めるギリギリで簿記2級を取ったりしつつこの道に入った。

 

難しいの一言

そのあとはいろいろあり、今の職場に落ち着いた。そもそも税理士試験は受験資格が必要なのだが、高専卒である私は残念ながらその要件を満たしていなかった。そのため全経上級というマニアック極まりない試験をパスして受験資格を得たのち、税理士試験の道へ入ることになる。

最初に書いたとおりだけれども全くと言っていいほど順調ではない。そもそも合格率10%の試験を5回通らなければならないのだ。2回は済んだが、あと3回も残っている。正気の沙汰ではない。

そして当たり前だが私も生きていかなければならないので、働いてお金を稼いでいる。働くことと並行してそんな試験勉強などやっているのだから、難しいにもほどがある。この上子供がいたらそれはもうほぼ不可能だろうというレベルである。

これから働きながら税理士を目指そうという人にアドバイスできるのなら、余程の体力と時間がなければ達成できないと伝えたい。資格学校の甘い言葉に騙されてはいけない。あれは嘘である。そのような情報の2倍から3倍大変であることを覚悟しなくてはならない。

ひとつ学んだことがある。世の中にあふれている言葉というのは、基本的に美辞麗句であるということだ。若く世間知らずだった私はそのような言葉にまんまと引き寄せられ、今の道に足を突っ込んでしまい抜け出せなくなっているわけだから、美しい言葉のなんと強力なことか。広告の分野に金が集まることも頷けるのである。

 

私の中での捉え方

はじめのうちは勉強するのも楽しく、単純に知らない知識を知ることができることを嬉しく感じていた。それがたまに仕事に活かすことができると、この上ない喜びである。そう思っていた。

しかし現実は甘くない。一向に突破できない。私はもはや、税理士試験に対しては怒りや憎しみしか抱いていない。完全に敵である。ぶっ倒してやると思っている。ボコボコにやっつけた敵から奪い取ったバッジをつけて、早く自分なりの稼ぎ方を作りたい。

思うに、過程ではなく成果に価値があるように、試験に合格すること自体はそれほど価値があるわけではなく、そのことによって得た資格を活かしてどう稼いでいくかということこそが真に取り組むべき課題である。このことを見失っては本末転倒なのだが、しかし見失ってしまうほどにこの試験はキツい。

やり遂げた方々のつぶやきをよく見かけるのだが、みなさん一様に嬉しさより安堵を感じる、もう勉強しなくてもいいという安心感が大きいとおっしゃっている。それほどに辛い期間を積み上げてやっと到達できるということだろう。

 

資格とはなにか

多種多様の資格があるが、主に二つの種類があると思う。

ひとつは基本的に危険で行ってはならない行為について、その行為についての知識・技能をある程度まで高めることによって許可を得、その行為を行うことができるようになるものである。例としては運転免許などだろう。ふたつ目は税理士もそうだが、生業として営むことを許可する類のもの。後者の資格は取得までの道のりがかなりつらいものが多く、換言すればそこを突破できればある程度飛びぬけた人間になることになり、一般的に安定した収入を得られるようになりやすい。

しかし、前述したとおり資格を取得しただけで自動的に収入が得られるようなことはなく、基本的には労働しなければ対価を得られないことに変わりはない。ここに過度の幻想を抱いて取り組み始めたとしても、それはきっと望まない結果になるだろう。

国家資格の年収ランキングなど、無責任な情報は数多いが、そのような表面的な部分ではなく本質を見極めなければならない。もちろんこれは、自分自身に言い聞かせているのである。

好きな物書きさんがいる。

竜崎大輝さんという人だ。

その時の思考から目を離さず書き綴っていて、人間や社会や生き方といった俯瞰した視点と、自分個人に焦点を当てた構成の対比が上手だと思う。加えて、何度も何度も思考を重ねてきたことにより備わった知性と、数多くの文章に触れてきたことによる語彙力がうかがえる。プロのライターさんだから当たり前だといえばそれまでなのだが。

私は文章を読むのが好きで、特に自分の思考に近い文章を読むのが好きだ。これは普通に考えたら当たり前なのだが、他人の文章を読むというコミュニケーションについて、少し考えてみたい。

 

文章とはなんなのか。

私にとって文章とは知識を得るための道具、他者とコミュニケーションするための記号である。はるか昔の人類は、生きていくために同族と協力する必要性に迫られ、言語を生み出した。そして蓄積された経験を次の世代に伝えるために文字を生み出した。それら歴史的な流れからみても、私の文章への認識は誤りがないように思える。

ただ、普通に生きていても文章と呼べるものに触れる機会は少ない。そもそも生きるということ自体が必要に迫られた行動の連続で、ほとんどが繰り返しである。その繰り返しの中にいる限り、新たな知識が必要になることはないし、他者とのコミュニケーションも必要最低限で済むだろう。

そんな中で文章に触れたければ、自分から行動するしかない。行動してまで求めるものであることを考えると、文章とはもはや日々の生活に密着したものではないのかもしれない。

 

他者の思考に触れるということ

私が文章を求めるのは、他者の思考に触れられるからである。私は人生や生き方について考えることが好きだし、未来やテクノロジーについて考えるのが好きだ。前者は倫理的な思考、後者は論理的な思考といえるだろうか。特に森博嗣先生の小説はこれらが混然一体となっており、私にとっては至高の思考である。

人間は生きているが、私は、人間にとっての生きることとは、思考することだと思っている。必要に迫られて行動・言動を行うのでは、ただの動物あるいは機械でしかない。現状を認識し、規範や方向性を定め、そこに至るためにどうすればよいのか思考し、実践していくのが人間であるし、生きることだと思っている。

そんな私にとって、他者の思考に触れるということは、他者の生に触れることと同義である。あまり他人に対して貪欲な興味を持つ人間ではないが、しかしその興味はゼロではない。さらに言えば対面して対話を重ねるより、文章を読めば早ければ数分で他者の思考あるいは規範に触れることができる。これは私にとって喜び足りえるのである。

 

共感の本質

人が人に共感することは、換言すれば安心できる、あるいはひとりではないと錯覚できる、又は自分が間違っていないと思い込むようなものだと思う。

世界の価値や善悪はすべて相対的なものであるから、これが絶対唯一正しいというものは存在しない。だからこそ人間は、自分で自分を正しいと思えなければならないし、そうできなければ非常に生きにくい。しかしそのようなことができる人間ばかりではない。人によっては誰かと価値観を共有することで、自分は間違っていないと確認することもあるだろう。そしてその方法は決して間違っていない。

人間は一人で生きていくことはできない。社会の中で生きていくしかない。社会の中で生きていくということは、他者にとって受け入れられやすい人格でなければならない。この、他者にとって受け入れられやすいというのは、自分で自分を観測したり判定することは難しいため、必然的に誰か他者とのコミュニケーションのなかで確認するしかないだろう。

かくいう私も、人並みに安心したい。だからこそ誰かの文章を読み、共感し、安心するのだろう。

 

書かれた文章を読むという緩い関係性

書いているうちに思い至ったのだが、もしかすると私は、対面でのコミュニケーションという直接的な、ある意味殴り合いに近いやり取りを得意としていないのかもしれない。書かれた文章であるなら、それを読む読まないはもちろん、受け取るかどうか、読み続けるかどうかがすべて自分の自由である。

加えてインターネットを通してのコミュニケーションは、概ね一方的であり、誰かが不特定多数へ発信するか、不特定多数へ発信されたものを誰かが受信するかのどちらかが多い。つまり双方向、やりとり、言葉の応酬ではなく、単なるインプット、入力に近いものである。

このあたりの差し迫ってこない緩い性格が、私を引き込んで離さない魅力なのかもしれない。直接会うことによる濃密なコミュニケーションと、間接的に思考に触れあう文章でのやり取りは、現代人の心のバランスを取ってくれるのだろう。

それは良い悪いの話ではなく、否応なく人間の方向性のひとつとして生まれつつある。文化が生まれるのは偶然かもしれないが、それが根付くのは必然であると思うからだ。